しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「奥の細道」雲の峰いくつくずれて月の山  (山形県月山)

2024年08月22日 | 旅と文学(奥の細道)

芭蕉がすごいのは文人として以外に、気力と体力が並外れている。
江戸からの旅人が羽黒山にお参りするとこまでは、まあ理解できる。
しかし、更に足を延ばして標高1.984mの月山、1.500mの湯殿山へ登る。
これは体力・気力とも揃わなければできることでない。

現代の我々の”登山”は、
登山口駐車場まで車、そこから八合目付近までロープウェイ。
山頂まで少し歩けば登頂、というのが、ほぼお決まりのパターン。
登山口に一番近いJR駅に降りて、そこから歩いて登る、という人さえ皆無に近い。

 

・・・

旅の場所・山形県鶴岡市羽黒町・月山弥陀ヶ原湿原  
旅の日・ 2022年7月12日               
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉


・・・


 「日本の古典11 奥の細道」 山本健吉 世界文化社 1975年発行


芭蕉が月山に登ったのは、六月六日であった。
出羽三山の主峰で海抜千九百八十メートル、芭蕉の生涯のうちに登ったいちばん高い山である。
山上の角兵衛小屋に泊まり、翌日南谷の坊に帰った。


「奥の細道」に「息絶え、身こごえて頂上にいたれば、日没して月現る」とあるので、
「雲の峰」の旬は、頂上でのけしきを詠んだものと思われている。
だが、芭蕉は、昼間に見た雲の峰のイメージを呼び起こしているのだ。
雲の峰がいくつ立ち、いくつくずれてこの月の山となったのであるか、といっているのである。
「月の山」を目の前にしているけしきと取らなければ、 この句は死んでしまう。

出羽第一の名山を詠みこむことが、芭蕉の挨拶なのである。
この霊地全体に対する挨拶だと見るべきだ。

・・・

 

 

・・・

「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


雲の峰幾つ崩れて月の山


芭蕉は羽黒山麓から歩きはじめて八里(約三二キロメートル)を登って月山の頂上に着き、
泊り小屋で一泊した。
山々は濃紺に沈み、眼下の雲は白くにじんでいる。
ちぎってばらまいたような雲であった。
雲の下には庄内の沃野が広がっていく。
その沃野の一点から吹きだす雲の峰があり、やがて雲は流れ、霞となって消えていく。
とみるや天上から太陽光線が差しこんで幾条もの光の束となった。
芭蕉が言う「雲の峰」が眼前で崩れては湧き、湧いてまた崩れていくのであった。

・・・

 

 

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「日本詩人選17 松尾芭蕉」 尾形仂  筑摩書房 昭和46年発行


雲の峯いくつ崩れて月の山


元禄二年六月三日(陽暦七月十九日)から十日に至る三山巡礼の記念として書き残したもの。
「月の山」は、いうまでもなく、月山の名をよみこみ、たたえたもので、 今でも月山参詣の道者は、
「月のみやま」と唱えるよし。 
「月の山」は、同時に、「霊の峯」に対して「いくつ崩れて」という時間の経過の中で見た場合、
月に照らされた山とも読める。
「月の山」は、月に照らし出された山、月光のふりそそぐ山と見るよりも、
それ自体が月光を発し皎々と輝く山のイメージを思い浮かべたほうが、いっそう信仰の山にふさわしいかも知れない。


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「奥の細道」涼しさやほの三日月の羽黒山  (山形県羽黒山)

2024年08月21日 | 旅と文学(奥の細道)

羽黒山の参道は”涼しさ”という言葉そのものの世界。
色は緑、涼しさしか感じない。
句は夜の三日月を詠んでいるが、羽黒山を代表する情景に感じる。

 


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旅の場所・山形県鶴岡市羽黒町手向「出羽神社(三神合祭殿)」  
旅の日・2022年7月10日               
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行

涼しさやほの三か月の羽黒山

羽黒山、月山、湯殿山の出羽三山は山岳信仰の霊場として古くより名高く、
『おくのほそ道』の旅の目的のひとつはこの出羽三山へお参りすることであった。
なかでも羽黒山は参拝客が多く、その門前町が手向である。

芭蕉が訪れたころは三百軒の宿坊があり、現在は古き宿が営業している。 
宿坊街のつきあたりが随神門で、そこをくぐると祓川を渡り、杉並木の一の坂、二の坂、三の坂が約二キロつづいていく。
石段が二千三百四十六段あり、とくに三の坂が急であるけれど、この道は草木ひとつひとつに神が宿っている。 
五十分ほどかけて羽黒山頂上に達すると三神合祭殿、蜂子神社、斎館、護摩壇がある。
一の坂にある五重塔(国宝)は塔じたいが巨大な樹木と化して地面へ根をおろして地下の生命とつながる。
随神門から山頂までの道は、「この世のものとは思えない」天然ムクの霊気で浄化される。

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「奥の細道」ありがたや雪をかをらす南谷  (山形県羽黒山)

2024年08月21日 | 旅と文学(奥の細道)

昭和10年代初め、
連戦連勝の日本軍の進攻と重なるように、相撲界に天下無敵、69連勝の大横綱・双葉山が登場した。
同じ部屋に、これまた大横綱になった羽黒山(はぐろやま)がいる。
大横綱羽黒山はてっきり出羽三山・羽黒山の辺り出身と思っていたが、
山形県でなく新潟県羽黒村の出身だそうだ。今知りました。
そういえば倉敷市玉島の中心地も羽黒山だ。

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山形県には、夏も残雪を見ることができる山が多い。
山形市を過ぎて北に向かうと残雪の山々が見えてくる。
最上川に沿って東へ方向を変えると、
出羽三山に残る白い雪が見え旅情気分を高める。

南谷に泊まった芭蕉は、残雪を”かおらす”と表現した。
雪が香るのは芭蕉の他にはいないだろう。

 

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旅の場所・山形県鶴岡市羽黒町手向「出羽神社(三神合祭殿)」  
旅の日・2022年7月10日               
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行


●羽黒山 

海抜四百十九Mの山。
月山、湯殿山が冬季に登れないため、 ここに三神合祭殿を造り、三山の神々を合祀している。
表参道の随身門から山頂までは約二キロ。
うっそうとした杉並木の中を二千四百四十六段の石段が続き、
その間には、祓川、須賀の滝、国宝五重塔など、名所や史跡がある。
芭蕉が泊まった南谷別院は、五重塔のある参道を二の坂に登って五百ばかり入った林の中に建っていたが、現在は礎石が残るだ けになっている。
ここには芭蕉の句碑 「有難や雪をかほらす南谷」が立つ。

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「わたしの芭蕉」 加賀乙彦 講談社 2020年発行


ありがたや有難や雪をかほらす南谷

暑い夏の道を行くと雪の香りのように冷たい風が吹いてきた。
なんと嬉しい、天の恵みであろう。
暑さのさなかにあって、涼しさの恵みを感じる、これこそ暑さの醍醐味なのだ。
羽黒山神社の本坊で芭蕉は連句の宴を開く。
その楽しみを思って、暑さよりも雪の香りを目出度いと思う。
句作が暑さを香りに変える。
この感覚が俳句の面白さだ。
暑さを有難いと思う俳人の鋭い感覚こそ芭蕉の俳諧師たる所以である。

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「奥の細道」五月雨を集めて早し最上川   (山形県最上川)

2024年08月20日 | 旅と文学(奥の細道)

最上川は山形県の延長229kmの川。
米沢・山形・尾花沢・鶴岡・酒田・・、山形県の全主要都市を流れる。
”日本三大急流”で難所もある。
江戸時代には最上川の治水事業や河道整備がつづけられた。


近年は観光舟下りやテレビドラマ「おしん」の舞台としても人気の地。
観光舟下りは、流れがいちばん穏やかなとろをのんびり舟遊びの感じだが
芭蕉が詠んだ最上川は、たぶん難所の最上川だろう。
”集めて早い”のは危険な最上川に違いない。

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旅の場所・山形県寒河江市・酒田市  
旅の日・2022.7.12                
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「流域をたどる歴史二東北編」 豊田武  ぎょうせい 昭和53年発行

山形県のおよそ8割を潤す最上川は、全長229km、流域面積7.040km2の大河である。

ひらた船
ひらた線には5人乗り米350俵積の大船、縦横18.2m*2.7m、
の他に中船、小船があった。
大船は今の、10トン積トラックの2台ぶんの輸送力である。
元禄10年頃大小652艘の船が最上川に浮かんでいた。
城米は赤字で、商荷輸送でカバーしていた。
 

小鵜飼(こうかい)船
江戸末期になると、最上川の急流に適合する改良船が増加した。
これが小鵜飼船である。
阿武隈川で導入され、舳先がとがり、スピードも出て、上流向きであった。
ひらた船が左沢~酒田間を往復1ヶ月かかったが、小鵜飼船は10~12日間と大幅な短縮であった。
特に明治になって河岸場の統制が解かれてから、需要が高まった。

明治30年代にはいると蒸気船が航海するようになり、
明治32年には鉄道が山形県まで延長され、大正2年酒田まで延長された。
船運は急速に衰えた。

・・・


「山形県の歴史」  誉田・横山共著  山川出版社  昭和45年発行


最上川舟運
西廻り航路の発達とともに、最上川舟運も一大発展をみた。
幕領、諸藩の年貢米のほとんどが上方へ運ばれた。
輸送路に恵まれない米沢藩は、仙台や新潟など一定していなかったが、巨費を投じて難所黒滝を開削をして、最上川下しとした。

奥羽線の開通
米沢に明治32年、新庄に明治36年、秋田県とは明治38年全通した。酒田線は大正3年に開通した。
最上川水運でにぎわった河岸場町のさびれようははなはだしかった。
本合海は、火が消えたようにさびれ
大石田は、船乗り・船大工は人力車夫や荷車引きになったり、移住していった。

 

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「わたしの芭蕉」 加賀乙彦 講談社 2020年発行

さみだれをあつめて早し最上川

これも『おくのほそ道』の名句である。
毎日毎日降り注ぐ膨大な雨は最上川を今にも氾させようとしているように、轟々と流れている。
芭蕉は最上川の急流を下った経験もあり、水の力の強いことを身をもって体験してい た。
五月雨の雨の力が強いこと、それが洪水を起すように強い力を持っていることを、一句で言いつくしている。

 

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「わたしの芭蕉」 加賀乙彦 講談社 2020年発行

さみだれをあつめて早し最上川

「荒海や」が、海島・天の三点セットだったのに、これは雨と川の二点セットだ。
前者が別々の存在であったのに、後者は同じ水という存在だ。
こういう具合に、
まったく違った自然の力を見事に詠みわけることのできる俳諧という表現形式に私は驚嘆するばかりだ。

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「奥の細道」閑かさや岩にしみ入る蝉の声  (山形県山寺)

2024年08月19日 | 旅と文学(奥の細道)

40年ほど前に、会社の慰安旅行で初めて、知らないまま「山寺」に行った。
なんで、わざわざ、日本全国のどこにでもある”山の寺”に行くのか?
それが不思議だった。

行ってみると、
これはすごいお寺だ。
山をくるぐる石段を上って登山のよう、
しかも参道の左右、上下、その雰囲気や眺めがいい。
芭蕉が有名な句を、ここで詠んだのもうなずける。
自分も一句詠もうと思った。(思っただけ)

芭蕉の時代も、現代も、立石寺(山寺)は見る価値がある、
特に”眺め”と”岩”がいい。健康にもいい。

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旅の場所・山形県山形市大字山寺「立石寺」  
旅の日・2019年6月29日          
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

 

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行

山形領に立石寺と云ふ山寺あり。
慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地也。
一見すべきよし、人々のすすむるに依りて、尾花沢よりとつて返し、
其の間七里ばかり也。
日いまだ暮れず。
梺の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。
岩に厳を重ねて山とし、松栢年旧り土石老いて苔滑かに、
岩上の院院扉を閉ぢて物の音きこえず。
岸をめぐり岩を這ひて仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。

閑さや岩にしみ入る蝉の声

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「わたしの芭蕉」 加賀乙彦 講談社 2020年発行

しづかさや岩にしみ入蝉の声

これは名句としてよく知られていて、出てくる場所はどこか、鳴いている蟬はにいにい蝉だとか、
蝉しぐれのように鳴いているのか、一匹だけが鳴いているのか、とかいろいろな意見がある。
そして多くの人々の研究によって大体の定説ができている。
静かさを表現するのに閑という一文字で言い放ち、それを岩に対比しているのだから、
蝉しぐれのような騒がしい鳴き方ではない。
山形市山寺にある宝珠山立石寺がそうだというのだが、その寺の名前と芭蕉の句は不思議に響き合っている。
人の行かない、打ち棄てられたような山寺で蝉の声だけが己を主張しているが、
それも山寺の静寂のなかで、むしろ無力でさびしいと芭蕉は感じた。
弟子の曾良が書きとどめた最初の一句はつぎのようだった。
山寺や岩にしみつく蝉の声

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「日本詩人選17 松尾芭蕉」 尾形仂  筑摩書房 昭和46年発行


閑かさや岩にしみ入る蝉の声

旅中、山寺での吟。
『おくのほそ道』きっての絶唱の一つに数えられる。
山寺と通称される宝珠山立石寺は、東北きっての天台宗の名刹で、慈覚大師入寂の地として知られるが、
当時、寺領千四百二十石、約百万坪に及ぶ境内は全山凝灰岩より成り、山門より 奥の院まで、おおむね石階をもって畳まれている。
芭蕉がここを訪れたのは、元禄二年五月二十七日(陽暦七月十三日)のことで、
その際、曽良の『俳諧書留』に「立石寺」と前書して見える、
山寺や石にしみつく蝉の声

 

・・・

 

 

(JR仙山線「山寺駅」の駅前)

・・・・


「山寺」は山形県の、ひなびた山の中にあるお寺ではなくて、
県都・山形市にあり、宮城県仙台市かも交通便利な場所に位置している。

 

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「奥の細道」眉掃きを俤にして紅粉の花  (山形県)

2024年08月18日 | 旅と文学(奥の細道)

紅花は山形県の”県花”に指定されている。
紅花は江戸時代に最上川沿岸で大隆盛したが、明治になって突然衰退した。
現在は観光用に少し栽培されている。

時期は、岡山県でいえば綿花に似ている。
一瞬で衰退したといえば、塩田もイ草もそうだ。
煙草や除虫菊や薄荷や養蚕も、今はない。

現在では「紅花」を偲ぶことしかできないが、
芭蕉は、紅花隆盛期の、しかもその開花時に最上川を訪れている。

 

・・・

「紅花(べにばな) ものとの人間の文化史」 竹内純子著 2004年 法政大学出版


江戸初期から栽培された最上山形の紅花は、色素が豊富で特に京都西陣の染織物に勧化され、
衣類の華美となった元禄のころから需要を増し、
輸出量は「最上千駄」といわれ、豊年のときは千三百駄にのぼったといわれる。
これらの積荷は最上川は舟で下り、酒田港で大船に積み替え、敦賀に入り、京都や大坂に輸送された。

紅花は花も葉も薊(あざみ)に似る越年草で、秋に種を蒔き、7月に花を咲かせる。
花は枝の末(先端)から咲き始め、その花弁を摘むので「末摘花」という異名が生まれた。
紅花は染料と顔料の二つの面を持つ、これは植物のなかでは紅花と藍だけである。
染料を得るため「寝かせ」という発酵の過程があり、熱を嫌うという共通点がある。

藍と紅花は相違点がありながら、その後は明暗を分けた。
藍は木綿と相性がよいことから仕事着から普段着まで用いられたが、
紅染は絹に染めつくため庶民の普段着用にならなかったのである。

紅花は葉や茎を乾燥して煎じ、民間薬として飲用され、間引きした紅花は茹でて食用にしていた。
種は油料である。
栽培の人たちは「紅花は捨てるとこがない」といわれていた。


芭蕉は奥の細道のどこで紅花を見たのか

尾花沢では紅花栽培はほとんど行われなかった。
芭蕉は尾花沢で10日間を過ごした。そのうち3日は清風宅で、あとの7日は養泉寺だった。
この間、雨の日が多かった。
芭蕉は尾花沢から立石寺に向かうのだが、楯岡村までは清風が用意してくれた馬で行った。
山形領に立石寺という山寺あり。慈覚大師の開祖にて、殊に清閑の地なり。
一見すべきよし、人々のすすむるによりて、尾花沢よりとってかへし、その間七里ばかりなり。

芭蕉が紅花を見たのは、尾花沢から立石寺に向かう道中であろう。

・・・

 

「NHKラジオ深夜便」 2014年7月号

ベニバナ 紅花

古代から地中海周辺で染料と薬用に栽培し、紅色を染める技術とともにシルクロードを経て、中国、日本に伝わった。
「紅藍花」は中国名、日本では「呉の藍」から紅と呼び、色の名にもなった。
摘んだ花を水に浸けて黄色い色素を除き、搾った花にアルカリ性の灰汁を注ぐと濁った赤い色となる。 
これに酸性液を入れると、一瞬で鮮紅色に変わり布を染められる。
これを沈殿させて作るのが紅で、
江戸時代の女性は貝殻などに塗ってあるものを小指に取り、唇につけた。
おちょぼ口が美人であった。
時には厚く塗ることが見栄で、美しく見せようと苦心した。


・・・

 

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旅の場所・山形県寒河江市「さがえサービスエリア」
旅の日・2022年7月10日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉


・・・


「山形県の歴史」 山川出版 昭和45年発行

最上紅花の発展

紅花は、相模・出羽・上総・筑後・薩摩が産地だが最上山形がもっとも良質とされた。
最上紅花が全国の約半分を占めていた。

紅花は豊凶の差がはなはだしく、日照りや花どきに多雨があると半作にも達しない。
農民にとって貨幣収益がよく、換金作物だった。

紅花作には金肥が必要であり、摘み取り期の労働力の制約があり、規模拡大には限界があった。
農民が収益をあげられるのは、農民みずから干花加工を行った場合である。
花摘みから花餅まで一ヶ月、女・男・子供・賃労働者で行った。

紅花商人
前期の商人で代表は、紅花大尽といわれた尾花沢の鈴木清風であろう。
芭蕉の「奥の細道」でも紹介されている。
後期に栄えた紅花商人の多くは、現在の金融・商業界の中心的存在といってもいい。


全国にその名をはくした“最上紅花”は、幕末に支邦紅が輸入され、明治に入り化学染料が輸入され、衰退していった・・・・
商業・金融・木綿・絹・瀬戸物・書籍まで多様な営業内容で、質流れ旧地を獲得する形で、土地集積は進んだ。

 

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「日本の城下町2東北(二)」 1981年3月ぎょうせい発行


山形市の築城と城下町づくりは最上義光によって行われた。

義光は最上川の三難所を削岩させ船便をひらいた。
山形を玄関として、幕府天領米・藩米は最上川を下って酒田から海路・江戸に送られ、
西回り航路がひらけると最上産の紅花・青そなどが京都・大坂・奈良へとおくられるようになる。
返り荷には、塩・砂糖をはじめ瀬戸物・太物・古手物・操綿・木綿などが送られてきた。

最上川水運がととのったのは寛文(1596~1673)にかけてである。
京都や奈良へ紅花・青その交易に先鞭をつけたは近江商人で、日野系と八幡系。

紅花は陽暦でいえば7月はじめから咲きだし、15日間くらいで終わる。
農家が朝早く摘んだ生花を、サンベと呼ばれる買人が買い集めて、山形の花市に持っていって加工する。

享保の頃、京都の花問屋が生産地で直接買い取りをはじめた。
そのころ、生産者農家も、自分の庭で花餅をつくるものが増えてきた。

明治初年、化学染料が輸入され出した。

 


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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行


まゆはきを俤にして紅粉の花


芭蕉は五月十七日、山刀伐峠を越えて尾花沢に鈴木清風を訪ね、十日間滞在。
手厚いもてなしをうけて二十七日に立石寺に向かった。
この旅の途中で「紅粉の花」が一面に咲いているのを見て詠んだものであろう。

季語「紅粉の花」は夏五月。
婦人が白粉をつけたあとの眉を払う化粧道具である眉掃きを連想させるような形状で咲いている紅粉の花は、
まことに可憐で美しい、の意。
本文では、清風の人柄を賞し、厚遇を謝したあとに発句四句を並べているのだが、
紅花問屋を営んでいた清風に対する挨拶と解することもできようか。

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「日本詩人選17松尾芭蕉」  尾形仂 筑摩書房 昭和46年発行


「眉掃をおもかげにして紅粉の花」の紅粉花は、『源氏物語』の「末摘花」である。
これらの句々の配列を貫くものは、
奥羽山系の横断を果たすことによって出羽の風土に発見した「古代」への賛歌という発想でなければならない。 

 

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「奥の細道」涼しさをわが宿にしてねまるなり  (山形県尾花沢)

2024年08月17日 | 旅と文学(奥の細道)

山刀伐峠。
芭蕉と曾良が命からがら峠越えした”最大の難所”。

峠の名からして恐ろしい。
反脇差を腰に差した若者が道案内をした
”今日こそ必ず危あやうき目にも遭うべき日なれ”と心細く後をついて行った。

峠を無事に越えて尾花沢に着いた。
この町には紅花大尽・清風が、芭蕉が来るのを待っていた。

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旅の場所・山形県尾花沢市  
旅の日・2019年6月30日
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉


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「日本詩人選17 松尾芭蕉」 尾形仂  筑摩書房 昭和46年発行

涼しさをわが宿にしてねまるなり


元禄二年五月十七日(陽暦七月三日)、芭蕉は山刀伐峠の険を越えて、
奥羽山系の横断を果たし、羽前国北村山郡の尾花沢(今の山形県尾花沢市)に到着、
土地の豪商鈴木清風の厚遇のもとに二十七日までここに旅の足を休めた。

句はこの滞在の間に巻かれた清風・曽良・素英・風流との五吟歌仙の発句として披露されたもので、
険路を踏破した後、ひとときの清閑の宿りを得やすらぎの思いがおのずからにしてにじみ出ている。

季語の「涼し」は、「清風」の号にちなみ清風亭の涼風を賞するとともに、また、
あるじ清風の、富貴にして俗塵を離れた胸中の清涼をたたえる挨拶の意を寓したもの。
同じく「わが宿にして」にも、わが家にでもいるような気持でということの中に、
あるじの好意にまかせきり、 その清閑の情にあやかって、との含蓄がある。

一句の句眼ともいうべき「ねまる」の語義については、
江戸期の注釈書以来、諸家に説々あり、「坐る」「寝る」の両義いずれを取るかで論が分かれているが、
多くの用例を加えて従来の 諸説を徹底的に再検討し、
これを「坐る」の義と断じた山田孝雄博士の「ねまるなり」の考が最も従うべきであろう。 

・・・

 

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行


山刀伐峠を越え尾花沢に入る

大雨のため、やむなく堺田の封人家で二泊した芭蕉は、快晴となっ 五月十七日、尾花沢へ向けて出立する。
寂しい山道を怖い思いをしながら山刀伐峠を越え、市野々、正厳 を経て、尾花沢の鈴木清風宅に入る。

 ●山刀伐峠 
芭蕉はこの峠越えを最も心細く感じ、今日は危険な目に遭うに違いないと予感した。 
若者を案内につけてもらったが、道はわかりにくく、樹木はうっそうとしてなお暗いという不気味さ。
しかも、ここては必らず、乱暴な事件が起こると聞かされて、芭蕉は生きた心地もなく峠を越えたようである。

 

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行


尾花沢にて清風と云ふ者を尋ぬ。
かれは富めるものなれども、志いやしからず。

都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知りたれば、
日比とどめて、長途のいたはりさまざまにもてなし侍る。

 

・・・

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「山形県の歴史」 昭和45年山川出版社発行


涼しさを 我宿にして ねまる也


松尾芭蕉が尾花沢で、”紅花大尽”の清風にもてなしを受けた際の気持ちが句によく出ている。
最上地方の名産「紅花」はなぜ衰退したのだろう?


養蚕・生糸業の発展

”最上紅花”として全国に名をはくした村山地方の紅花が衰退したのは、
幕末に支那紅が輸入され、さらに明治にはいり、
廉価な新紅と呼ばれた化学染料”洋粉アニリン”が、大量に京都に輸入されるようになってからである。

河北町の明治3年の記録に「畑方は紅花もよろしからず。百姓一同大いに困りいりそうろう」とある。
明治3年の山形県の産額は1万2千貫目、その翌年は半分、やがて統計書から姿を消した。

いっぽう製糸・絹織物は飛躍的な発展をみた。

 

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【花笠音頭】

花の山形 紅葉の天童
雪を眺むる 尾花沢

の「尾花沢」は民謡に歌われる町だが、意外に小さな町並みだった。

・・・

 

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「奥の細道」蚤虱馬の尿する枕もと  (山形県封人の家)

2024年08月16日 | 旅と文学(奥の細道)

句から想像すると、奥羽山脈の山中に「ポツンと一軒家」。
芭蕉が一宿を借りたのは、農具も家畜も麦藁もいっしょになった農家の片すみに寝た。

そんなイメージだが、
県道沿いの便利な場所。
農家ではあるが大きな庄屋さん。
一宿ではなく、雨のため三日間逗留した。

今は旧有路家住宅(封人の家)という山形県の観光地となっている。
住宅は江戸初期のもので、昭和40年代に解体復元された。
土間には木造の馬がいて、
囲炉裏には本物の火が燃え、芭蕉の時代を偲ぶことができる。
県道の向かい側が駐車場で、
土産店やそば店があり、ドライバーたちの休憩所となっている。

 


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旅の場所・山形県最上郡  
旅の日・2019年6月30日              
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉


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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行

蚤虱馬の尿する枕もと

五月十五日(陽暦七月一日)芭蕉は
尿前の関を越えて出羽国に入り、堺田到着、
「封人の家を見かけて舎を求」めた。
「封人の家」とは、辺境を守る家のことで、
当地で代々庄屋を世襲してきた有路家のことである。 
この夜の感懐を託したのが、「蚤風..」 の一句である。
季語は「蚤」で夏六月。
馬小屋にでも泊めてもらったように思われる句であるが、そうではない。

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行

●封人の家(旧有路家住宅)
芭蕉も深沢、大深沢という難所に苦しみながら中山越を果たし出羽街道を出羽国へと入ってきた。
そして、日が暮れたために宿を求めたのがこの封人の家である。
「封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。」と、
芭蕉は書いているから、二~三日、雨のために滞在したことがわかる。
その折の句が「蚤虱馬の尿する枕もと」。


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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行

 

蚤虱馬の尿する枕もと

『おくのほそ道』の旅は、すべて風雅というわけではなかった。
尿前の関をすぎて出羽の国へ越えようとすると、関所の番人に怪しまれて、ようやく関を越えることができた。
さらに山を登っていくうちに日が暮れて、国境の役人の家を見かけて泊めてもらった。

この家は堺田にある旧有路家住宅・封人の家で、一般公開されている。
堺田は馬の産地であり、大切な馬は母屋のなかで飼われていた。
芭蕉は奥の座敷に泊まったが、入り口の脇にいた馬が小便をする音が家中に響いてきた。 
さんざんなめにあった。
馬の排泄音が枕もとでした
おまけに蚤がいるわ虱はいるわで、さんざんなめにあった。

尿と書いてバリと読ませる。
ここに尿の句をもってき たのは、「尿前の関」という地名からの連想で、芭蕉のつくり話。
読者が思わず笑ってしまい、「いやはや、大変なめにあったんだなあ」と同情するシー ンは紀行や歌仙に欠かせない。
有路家は江戸時代初期の建築で、国境を守る役人をしていた庄屋である。
寄せ棟造り広間型民家で、役場と自宅と宿を兼ねており、入ってすぐの土間に馬小屋がある。
芭蕉の句から連想されるような貧家ではない。
『おくのほそ道』の旅で、芭蕉が泊まった宿がそのままの形で残っているのはここだけであり、
史跡「封人の家」として、観光スポットとなっている。
家の前は観光バスが止まり、土産物屋や食堂が並んでいる。

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書いていて気が付いたが、
ノミもシラミもすっかり見なくなった。

この句を若い人に教える先生は、
人間の身体にまとわりつく小生物の説明から始めなければならない。(難儀な時代だ?、それともいい時代?)

 

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昭和20年8月14日、「最後の空襲」

2024年08月14日 | 昭和20年(終戦まで)

人気歌手のシゲちゃん(旧ジャニーズ事務所・NEWSの加藤シゲアキ)は歌や踊りだけでなく、
作家としてもよく知られている。
そのシゲちゃんが「なれのはて」という新作品を発表し、雑誌にインタビュー記事が載った。


八橋油田の近く、秋田市土橋港に製油所があった。
その土橋製油所が8月14日夜~15日未明に爆撃空襲にあい、約250名もの犠牲者を出したそうだ。


この日(昭和20年8月14日)、日本全土や外地の戦地では、翌8月15日正午の”重大放送”を待っていたが、
不運なことに米軍のマリアナ司令部に攻撃中止が伝わったのは、
8月15日午前4時45分で、既にB-29の編隊は日本空襲を終えて帰還する途中だった。
秋田県土橋のほかに、
埼玉県熊谷、群馬県伊勢崎が昭和20年8月14日~15日、「最後の空襲」攻撃された。

 

 

歴史街道」令和6年5月号  PHP研究所 令和6年4月6日発行

 

特別インタビュー
「なれのはて」で“最後の空襲”を描いた理由   加藤シゲアキ

 

今の自分に何が描けるのか

僕は生まれが広島です。とはいえ五歳までしかいなかったので、 当時の記憶はあまりないのですが、
出生の地というご縁もあって、 広島の方にお声がけいただいて、ここ十年くらい、太平洋戦争にまつわるお仕事をよくさせてもらっています。

今の自分には戦争の何が描けるんだろうと悩みました。 
戦争はこれまでにもたくさん小説で描かれてきていて、優れた作 品がすでにあって、ルポルタージュとか、ノンフィクションもある。 
自分の小説を良くするために戦争を利用したと思われたくないですし、フィクションだからこそ書けるものがまだはたしてあるのかと、 葛藤しました。
そこでふと、日本には東京、広島、長崎など、これまで戦争に関する作品で多く書かれてきた。 
よく知られた地がありますが、戦いは日本各地であったはずだと思い至ったんです。
そのなかには僕が知らない戦いもきっとあって、それこそ僕が描くべきかもしれない描けるかもしれない。
なかでも、自分に縁がある地について書 きたいと思いました。
僕の父は岡山、母は秋田の出身です。
何気なく戦時中の秋田について調べたら、最初に、「土崎空襲」が出てきました。

詳しく調べてみると、日本最後の空襲だったことを知りました。 
そこで、「なんで最後の空襲が秋田だったんだろう」と疑問が浮かんで気になってました。

 

土崎空襲を通して描きたかったこと

昭和20年(1945)8月14日の夜10時半頃から、8月15日の未明にかけて、土崎はB-29の爆撃に見舞われ、250名以上の方が亡くなられました。
なぜ土崎が空襲を受けたかというと、秋田には日本有数の油田があり、土崎に当時日本で最大の産油量をあげていた製油所があった からです。
そこが攻撃目標とされたのです。
空襲に向かうB-29のパイロットの映像も残っていますが、基地から飛び立って日本各地に向かい、
土崎空襲と同じくらいの時刻に、埼玉など、秋田以外の場所も空襲を受けています。
土崎空襲の史料は、実はあまり残されていません。
そのため、執筆するにあたって、読めるものは基本的にほとんど読みました。
土崎空襲で落とされたのは、焼夷弾ではなくて、爆発性の高い、かなり高性能な爆弾でした。
「燃やすこと」が目的ではなくて、「破壊すること」が目的だったと思われます。


スポットライトを当てたかったもの

土崎空襲を描いてみて、実際に被災された方がいかに大変な想いをされているかを知りました。
ただ当時、日本では他にもたくさんの街が空襲を受け、その一つひとつは、どうしても歴史のなかで埋もれてしまいやすい。
でも、僕がスポットライトを当てたかったのはそういうもので、
戦災は日本各地であったということが伝わればと願っています。
今は映像などで戦争の様子がリアルに表現されたり、「戦略」みたいなこともメディアで解説されていたりします。
でも、「空から爆弾が降ってくる、戦争は嫌なもの」という肌感覚の恐怖を伝える、 
感情を動かすというのは、小説の仕事なのかもしれません。

僕は、小説は「答え」ではなくて、「問い」だと捉えています。 
僕の小説のなかでは何か答えを出したいわけでもないし、自分のなかで答えが見つかっているわけでもありません。
読んだ人に、「あなたはどう考えますか」と問いかけることが、 自分の今のところの仕事だと考えています。
僕の小説を気軽に読んで、面白かった、と思っていただけたらそれだけでも嬉しいですが、
そこから、「日本最後の空襲が秋田であったんだ」とか、「戦争って、何なんだ」とか、何か感じて思いをめぐらせてもらいたいです。

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「奥の細道」五月雨の降りのこしてや光堂  (岩手県平泉)

2024年08月13日 | 旅と文学(奥の細道)

この東北旅行の時は天気に恵まれなかった。
しかし、中尊寺の濡れた参道を歩いているとき薄日が差した。
この旅行中で、初めて光と地面に影ができた。

この日は6月30日で、
芭蕉と曾良が中尊寺を訪れた旧暦五月十二日と一日違い。

何か芭蕉が歩き見た中尊寺と同じように感じ、
幸運を感じながら光堂を拝観した。

 

 

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旅の場所・岩手県西磐井郡平泉町 ” 世界遺産” 中尊寺   
旅の日・2019年6月30日           
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉


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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行


兼て耳驚かしたる二堂開帳す。
経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、
三尊の仏を安置す。
七宝散りうせて、珠扉風にやぶれ、
金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚の叢と成るべきを、
四面新に囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぎ、暫時千歳の記念とはなれり。


五月雨の降りのこしてや光堂

 

 

 

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


五月雨の降のこしてや光堂


芭蕉は平泉で、二堂、中尊寺の光堂 (金色堂)と経堂(経蔵)へ参拝した。
「経堂は三将の像を残し、光堂は藤原三代の棺を納め、三尊仏を安置している」とあるが、
経堂には三将(清衡、基衡、秀衡)の像はなく、「三将の経」(藤原氏三代の奉納した一切経)がある。
文珠菩薩、優塡王、 善哉童子の像があるので、それを三将の像と思いちがえたか。
光堂の三尊の仏は阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩)である。
なにぶん芭蕉の実地取材は二時間しかなかった。

「四面新に囲て」は光堂を覆う鞘堂のことで、鎌倉時代、南北朝末に作られた。
光堂は、柱から床まですべてが黄金である。
光堂は黄金装置であり、黄金の内面が死であることを思いあわせれば、光堂は無常の棺である。

 

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