しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満蒙開拓団   ただ一人、私だけ 死にきれなかった 

2024年08月01日 | 昭和20年(戦後)

戦後からみれば、

そもそも、何故、他国の満州へ移民したのだろう?
と簡単に言える。

そして開拓団が昭和20年8月9日を期に、
石を投げられ、暴行・略奪され、
全てを棄てて逃げ出すしか方法はなかった原因も、簡単にわかる。


開拓団に募集した人は正義感や国を思う心が強かったことも、感じる、が
それは当時の日本と日本人にしか通用しなかった。
他国はそれを侵略とみなしていた。


本当に悪かった人は、国の指導者であろう。

 

 

 

・・・

雑誌 「NHKラジオ深夜便」 2015年10月号  

戦後七十年特別企画
戦争・平和インタビュー選3
ただ一人、私だけ 死にきれなかった  久保田諫

昭和5(1930)年生まれの久保田錬さんは、終戦当時15歳。 
国策で進められた「満開拓移民」として、家族と離れ満州(現・中 国東北部)に移り住んでいました。

 

開拓団として満州へ

一満州に行かれたのは昭和19年の5月とのこと。当時はどんな心境でしたか。

久保田 
それはもう、すばらしい所という話だったから、楽しみで。
満州国の首都たる新京からわずか12キロの場所だから、みんなわくわくして行ったわけだわな。
ちょうどアヤメが花盛りの季節で、いたるところに自生してるんだよ。
確かにすばらしい所だった。 
農地も、一戸当たり二十町歩ぐらいもらえるという話だった。 
内地とは桁違いの広さで農作業の手が足らんから、
苦力っていう中国人の人夫を雇って、みんなやらせちゃうんだ。

一開拓団が、一から開墾したのではないんですか。

久保田 
現地の農民が開拓した土地を、ただ 同然の値段で強制的に買収したんだよね。
その人たちを住んでる家から追い出して。
日本からの開拓団とは名ばかりで、むしろ土地を荒らすくらいだったんです。


―そうすると、開拓団に対する現地の人々の目も厳しかったのでは?

久保田 
表面的にはそういう感じは全然なかった。
我々には好意的で、近所の者が「休みの日には遊びに来い」とかって声かけてくれるんだよな。
ふらっと遊びに行くと、いろいろな料理を作って歓迎してくれるんだ。


―長い時間が過ぎましたが。

久保田 
あの終戦直後の出来事は、絶対忘れることはできんの。


―終戦翌日、略奪が始まるんですね。友好的だった雰囲気が、終戦で一変した。

久保田 
まず五月の中頃から一人か二人ずつ召集令状が来て、男の働き手がだんだん少なくなって、
しまいには全員根こそぎ召集。
最後の人たちが入隊したのは八月十五日の朝なんだよ。
村に残ったのは年寄りの団長とおじさんが一人、それからおれともう一人、耳がものすごく遠い二十五歳の中川さんという青年。
あとは女子どもばっかり。 
十五日の正午に玉音放送があって、近くの雑木林に年寄りと女子どもが集まって一夜を明かした。
その日は何事もなく、いったん村に帰ることになったんだが、
だんだん中国人が集まってきたんだよ。
開拓団の事務所に入ってくる者もいて、物色してた。 
外を見たら、もう二、三百人が集まっている 。
そこへ馬をすっ飛ばして中国軍人が来て、 大声を上げながら空へ向かって拳銃をパンパンと二発ぶっ放したんだ。
それと同時に群衆がときの声を上げ、日本人の住宅になだれこんで、われ先にと物を運び出したんだ。
しまいには窓枠まで取り外して、担いでいっちゃった。
おれたちは棍棒で叩き出されて、さんざん殴られたもんで、逃げ出してトウモロコシの畑の中に隠れたら、そこに中川さんも来た。
もう夜になってたから、二人とも一眠りしちゃったんだ。 
それも十分か十五分ぐらいのもんだと思うんだけども、どっかから女の声が聞こえて気がついた。
先に出発していた団長以下、女子どもが略奪にあっとったんだね。
おれたちが出て行くと、「や、男が来た。 それ!」っち ゅうわけで、
団長と中川さんとおれの男三人は棍棒でいやっていうほど殴られた。
取るもの取ったら連中は引き揚げたけど、団長は虫の息になっちゃって、
「おれはだめだ、早く楽にしてくれ」と言うわけ。 
「おまえたちはなんとか日本へ 帰って、この状況を報告してくれ」って。
でもおれは十五歳の少年だし、あとはおばさんたちだけだからね。
結局、校長先生の奥さんたち三、四人が話し合って、「しかたないだろう」って言って、
みんなで手をかけたんだ。
さよならだ、お別れだという意味で手足や体を触って、それから二、三人で首を絞めて、団長の息の根を止めてしまったわけよ。 
前日の朝に出征した人たちが、敗戦になって帰ってこないっちゅうことは、みんな殺されたのか、戦死したのか。
どっちみち、日本人は一人残らず殺される。
私たちもおもちゃにされて殺されるより、ここで死のうという話になった。


―女性たちが、集団自決することを決めたわけですね。

久保田 
えらいことになったなと思ったけど、どうしようもない。
日本が終わりなんだから、世の中もこれで終わり。 
そんな感じだったな。 
おれは家族がいないから、なんの感慨もなくぼうっとしてた。
そのうちにおばさんたちは、 わが子の首を絞めて殺し始めて。


―母親が自分の子どもを?

久保田 
そうなんだ。 「お父さんたちはみん戦死した。一緒にお父さんのところへ行う」と子どもに言い含めて、首を絞めた。
おれがぼうっとしてたら、「久保田さん、なにしてんの。早くしないと夜が明けちゃう」と言われた。
殺すのを手伝ってくれっちゅうわけだ。
それでおれも手伝って、小さい子どもから順に、首を絞めて殺した。
お母さんが、「さあ、お父さんとこに行くんだから、手を合わせなさい」と言うと、
子どもが言われたとおりに手を合わせて座る。 
その後ろからひもで首を絞めるんだ。
まだおんぶされているような小さい子どもは、きゅっと押さえるだけでいい。
息が止まると、順に枕を並べて、
「お母さんも後から行くからな、先に行っとれよ」っちゅうようなことを、 
みんな独り言みたいに言いながら。

大きい子は大変なんだよ。苦しいからどうしても抵抗しちゃうわけだ。
お母さんも力尽きて首を絞めてる手がゆるんじゃう。そうするとまたやり直しだわな。
それを見とった看護婦の経験者が「苦しい思いをさせるのはか わいそうだ」って、要領を教えてくれたんだよ。
首に巻くひもに余裕を持たせて、そこへトウモロコシの茎を二本ぐらい入れてぐるぐ ねじり上げるんだ。
そうするとちょっとぐらいじゃ緩まない。絞められたほうは体がぐうっと伸びて、あおむけに反り返るんで、
そのみぞおちを足でぽっと蹴ると、さっと息が止まっちゃうんだよ。
そういうふうに子どもたちを殺してしまうと、今度はおばさんたちがお互いに
「それじや、今度は私を頼む」
「はい」
って順に首を絞める。
まあ、とんでもないことになってしまったわけさ。


―そこで何人の方が亡くなったんですか。 

久保田 
七十三人。はっきりしたことはわからんけど、おれは二十数人、手をかけたと思うんだよ。


―逃げようと言う人はいなかったんですか。 

久保田 
一人もいなかったな。
日本が負ければ一人残らず殺されると、そういう教育があったからかな。
しかし、全部の開拓団がそうだったかというと、そうじゃねえ。おれたちの開拓団だけそういうことになっちゃった。


―二十数人を次々に手にかけていく、そのときはどんなことを考えていましたか。

久保田 
そんなもの、何も考えとりゃせんね。 
夢中だ。
ただ夢中のうちに、事が起きて、終わってしまった。
最後に中川さんとおれが残って、二人でどういうふうに死のうか話し合ったんだ。 
ナイフ一丁でもあれば、のどを突いて死ねるけど、 なんにもないんだな。
石を探してきて、交互に眉間を殴り合った。そのときの傷はまだここに残ってる。
五、六回殴る と、生ぬるい血がドロドロ流れ出して、「よしれで死ねるわ」って横になって、二人 とも気絶しちゃった。
でもその数時間後にものすごいスコールがあって、二人とも気がついてしまったんだよ。
薄日がさしていて、見上げたら太陽が真上にあった。
周りを見たら、屍の山と言うより、屍の海。 
畑の中に七十三人の屍が横たわってる。
それさ、衣服をまとっている死体はほとんどないんだ。
お母さんたちがちゃんと枕を並べておいたのを、ごろごろ動かされて服がみんな盗られちゃってる。
ほんとにぶざまな格好で、裸の屍が横たわっていた。
スコールのたまり水と泥と一緒にすすって、それで一応生き返ったんだな。
だけど、首を絞めた人は一人も生き返らなかった。


―その後、久保田さんたちは中国の内戦に巻き込まれて帰国に三年かかり、その間、中川さんは病気で亡くなったそうですね。数年前まではこの体験を語ることはなかったそうですが。

久保田 
ほんなもん、集団自決なんてとんでもない体験、話せないと思ってた。
だけどそれではいかんと思うようになったんだな。
そういう悲惨なこともあった後に、今の平和な日本があるんだっちゅうことを、みんなに知ってもらおうと話を始めた。


―女性たちはなぜ自決という道を選んだと思いますか。

久保田 
それは国のために死んだんだわな。
負けたから、日本人であるために、国のために死ななきゃしょうがないっちゅうことになった
......そう考えな、しょうないな。
あの時分、「一億一心」という言葉があって、一億の日本人が協力して戦争を勝ち抜こう、そういう教育だったんだ。
最後の一兵まで戦うっちゅうことだったから、日本が負けということは、お父さんはすでに戦死した。 
そう思い込んだのは間違いないわ。
何十年も経ってから、「おばさん、やめろ。 なんとか逃げていこう」って、どうしておれ、 言わなかったかなっちゅうことも、考えたことがあるよ。
生きておれば、こんな平和な日本の生活をしとれるんだって、
亡くなった人たちには、ほんと、声をかけたいよ。残念でしかたがない。


―つらい体験を語るのは、負担ではありませんか。

久保田 
負担だよ。
消耗する。
でも、いまさら亡くなった人のためにもならんだろうけど、 今後戦争なんか起こらんように、二度とあんなことが起こらんように、知っていてもらいたい平和な日本のためになればと思うわな。 
(2009年8月11日放送)

現在、八十五歳になった久保田さんは、六年前の放送時と変わらず、地元・長野の「満蒙開拓語り部の会」に所属。中学校や公民館で、戦争を知らない世代に集団自決の悲劇 語り継ぐ活動を続けています。

・・・

 

 

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満蒙開拓団 ソ連の侵攻・敗戦

2024年08月01日 | 昭和20年(戦後)

♪赤い夕陽の満州は・・・、
昭和20年(満州帝国康徳12年)の8月9日をもって一変した。

満州帝国にソ連軍が攻め込んできた。
日本軍人は先に逃げ、次に役人が逃げ、一般邦人が丸腰の状態で
ソ連軍兵士の餌食になった。

都市住民はソ連兵の、強姦・殺害・持逃げ、を無抵抗でされるがまま。
開拓団の集団は、徒歩で荒野を、乞食同様な姿で・・・その無法の都市へ向かった。

 

 

・・・

「昭和時代 敗戦・占領・独立」  読売新聞  中央公論社 2015年発行

恐怖の逃避行

 

約155万人にのぼる在留邦人(軍人は除く)は、突然のソ連軍襲来に驚き、大混乱した。
根こそぎ動員で一家の柱を失っていた辺境の入植地では、女性や子供、老人たちが置き去りにされた。
その数、約22万人といわれる。

関東軍は、作戦計画が漏れるのを恐れて、一般人に避難勧告をしなかった。 
都市部の住民も、突然の避難命令に困惑した。
最初の避難列車は、主に軍人・軍属、大使館や満鉄(南満州鉄道) 関係者の家族たちが占めることになった。

ソ連軍兵士は、満州各地で略奪と暴行を繰り返すなど非道の限りをつくした。
在留邦人は逃げ惑い、殺傷され、集団自決を余儀なくされた。
恐怖の逃避行を続ける人々を飢餓と酷寒と疫病が襲った。
これが、今日に至る中国残留婦人・孤児の悲劇につながっている。
『満洲開拓史』(満洲開拓史刊行会)によれば、
800以上あった開拓団の中で、集団自決などで全滅した開拓団は10を数え、死者は約72.000人に及んでいる。 

 

・・・


「大日本帝国崩壊」  加藤聖文  中公新書  2009年発行

外務省がポツダム宣言受諾を伝える一方、東郷茂徳大東亜大臣(外相兼任)の名でアジア各地の在外公館宛に暗号電信が送られていた。
当時、満洲国を含めた中国や東南アジアの占領地は大東亜省の管轄下にあった。
アジア太平洋地域での日本軍の武装解除と復員については大本営の指令によって行われるが、
民間人の保護と引揚については大東亜省の出先公館に委ねられていたのである。

戦争は終結したが、具体的な敗戦処理はここからはじまる。
これこそが重要な問題であった。
しかも、朝鮮や台湾満州といった植民地ばかりではなく中国から東南アジア、太平洋の島々の占領地を含め、
ヨーロッパ戦域よりもはるかに広大な地域に300万を超す日本軍が依然として展開していた。
さらに、兵士ばかりではなく300万人を超す民間人も同じように各地域に散らばっていた。
とくに日本政府の保護が及ばなくなる民間人の取り扱いが大きな問題となることは明らかであった。

しかし、日本政府が敗戦を受け入れる過程で、こうした問題は深く議論された形跡が見あたらない。
本土決戦を譲らない軍部を押さえて戦争をいかに終結させるかに関心が集中した結果、
国体護持という抽象的な問題だけが争点となってしまい、
敗戦にともなって想定される問題の洗い出しも対応策の具体的な検討も政府内部で行われなかったからである。

大東亜省は、具体的な指示を伝えた。
そこには、「居留民はでき得る限り定着の方針を執る」とされていた。
すなわち、大東亜省は現地定着方針による事実上の民間人の切り捨てを行ったのである。
また、電信では同時に、朝鮮人を「追て何等の指示あるまでは従来通り」としたが、
追って指示はないまま、彼らに対する保護責任は連合国側へ丸投げされた。

・・・


「福山市史下巻」 福山市史編纂会 昭和53年発行 

青少年義勇隊などの民間人の場合には、ほとんど遺棄されたままにおかれ、とくに中国にいた民間人の場合には、
軍人が先を争って帰国しようとしたため、その半数がふたたび故国の土を踏めなかったといわれている。

・・・

 

「新修倉敷市史・第6巻」 倉敷市 平成16年発行

敗戦と満蒙開拓団

 昭和20年8月9日ソ連参戦、15日の敗戦を契機に満州での青少年の生活は一変する。
虚構の満州国はあえなく瓦解した。
一般開拓団、青少年義勇軍を問わず、彼らは日本政府と日本軍・関東軍に捨てられ、茫然自失した。 
中国農民の土地を奪って入植していたのであり、逃げ出し引揚げる以外に道はなく、
敗戦後にも悲惨で冷酷な歴史が展開されたのである。
ソ連参戦と同時に関東軍は国境に 一部の少数兵力を残していち早く後退し、
開拓農民と青少年を見殺しにしてしまった。 
成年男子を根こそぎ応召動員されて、老幼婦女子を主力とした開拓団、義勇軍の青少年たちは、
無防備の中で完全に取り残された。
以後は命からがらの長い長い逃避行であり、修羅地獄であった。
胡盧島を出帆して内地に帰還した彼らは、多くの肉親・友人を失い、まさに中国侵略の犠牲であった。


・・・

 

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