しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「奥の細道」夏草や兵どもが夢の跡  (岩手県平泉)    

2024年08月12日 | 旅と文学(奥の細道)

源義経は子どもの頃のヒーローだった。
大人になってくると、兄頼朝が義経を排除した理由もよくわかってくる。
それでも義経はヒーローでありつづける。
それが平均的な日本人の義経への思いであり、
そして今も、義経の死後800年とつづいている。

この句の「兵ども」とは、義経および藤原三代の栄華を指している。

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三代の栄耀一睡の中にして、
大門の跡は一里こなたに有り。
秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。
先づ高館にのほれば、北上川南部より流る々大河なり。
衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落人る。
康衡等が旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。

さても義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢となる。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」
と、笠打敷きて、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や兵どもが夢の跡
卯の花に兼房みゆる白毛かな  曾良


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旅の場所・岩手県西磐井郡平泉町「高館」  
旅の日・2019年6月30日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉


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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行

夏草や兵どもが夢の跡


芭蕉は五月十三日、一関より平泉におもむき、
高舘・衣川・衣の関・中尊寺・光堂・和泉が城・桜川・桜山・秀衡屋敷跡などを見物しているが、
その際の高舘における感懐をまとめた作である。

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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


今高館にのぼってみると、夏草がのび放題にぼうぼうと茂っている。
それは修羅の巷を思わせるような乱雑な感じである。
ここは昔兵どもが功名を立てようと奮戦して、失敗に終った夢の跡である。
広く考えれば、この平泉に居を占めて、栄華を誇った藤原氏の夢の跡といえるかも知れない。
功名も栄華も結局一場の夢にすぎない。
悠久な自然に比べると人間のしわざはまことにはかないものである。
芭蕉はこういう感慨をこめて、

夏草や兵どもが夢の跡

という句を作った。 
杜甫の詩「春望」に、
国破 山河在
城春草木深
感時花濺涙
とうのがある。
全くその通りであると、時刻のうつるのも忘れていた。


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「わたしの芭蕉」 加賀乙彦 講談社 2020年発行

夏草や兵共がゆめの跡

『おくのほそ道』としてまとまった「紀行」を論ずるのはあとにして、まずこの名句に触れてみたい。
 義経の一党も藤原家の人びとも、功名も栄華も今はなくなって、 一場の夢となった。
なつ草が茂るという現実の出来事は毎年繰り返されて続いているが、人事はすぐ消えてしまう。
人事、つまり義経や藤原家の夢である。

人びとの夢と、ひらがな漢字混用のなつ草とでは人間の栄華のあとのほうが強く表現されすぎていて、
つまり歴史の出来事が強すぎてなつ草が弱い。 
夏草や兵共が夢の跡
そこで、「なつ草」を漢字の「夏草」にしてみると釣り合いがとれる。
表現のすごさは、「夢」を「ゆめ」というひらがなにしたことにある。

 

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


夏草や兵どもがゆめの跡


「夏草や」とくれば、多くの日本人がこの句を思いうかべるほど、広く知られている。
東北線の平泉駅で下車して、義経の居館があった北上川を見おろす高館という丘へ向かう。 
標高六七メートルの低い丘へ登ると、雑草が生えた広い河原をへだてて青い山々が見え、「夏草や」の句碑が建っている。

詩人杜甫の「国破れて山河あり、城春にして草木深し」からの引用である。
最後の部分を「城春にして草青みたり」と変えた。
広い草原の河原は、かつては藤原一族の邸宅があ ったところだ。
丘をさらに登ると、義経堂があり、義経像が祀られている。
義経はこの高館を居館とし泰衡の軍勢に襲われて討ち死にした悲劇の武将で、芭蕉は義経をことのほか敬愛していた。

『ほそ道』の旅で圧巻となる平泉へは、五月十三日(陽暦で六月二十九日)の一日だけ、 一関からの日帰りであった。


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「奥の細道」松島や鶴に身をかれほとゝぎす   (宮城県・松島)

2024年08月12日 | 旅と文学(奥の細道)

”松島”は、はっきり言って瀬戸内海地方に住む人にとっては、景勝地ではない。
普通の景色。

だが日本では古くからの名勝地であり、
芭蕉もたいへん旅の楽しみにしていた場所。
しかも、眺めにあまりに感動して句を詠めなかった。
奥州の入口、白河の関でもそうだった。
感動して句が出ない。

そのへんに俳聖と称される芭蕉先生の、親近感のある人間性を感じる。

 

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旅の場所・宮城県松島町  「日本三景松島」
旅の日・2019年7月1日                
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉


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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


松島や鶴に身をかれほととぎす

「鶴に身をかれ」といったのは、あるいは曽良が自分に向って言い聞かせた言葉かも知れない。
鶴に身を借りて、この松島湾の上を飛び廻ったら、どんなに楽しいことだろうと、心ひそかに思ったかも知れないのである。
とにかく「鶴に身をかれ」という言葉からして、松島の大景がくっきりと浮びあがり、そこに鶴を点することによって、
塵界を遠く離れた仙境にまで想像の翼をひろげることができる。 
観念的な何といえばいえるだろう。
しかし芭蕉は曽良の句としてこれを高く評価した。
芭蕉も句を案じて見た。
何らしいものができないことはなかったが、それは自分で満足するようなものではなかった。
夜も更けてくるので、句は断念して床に就こうとしたが、すばらしい風景が目の前にちらちらしてなかなか寝つかれなかった。

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


仙台から塩竈へ行く途中の塩竈街道の奥に「おくのほそ道」という旧道があり、これは 三千風が調査して名づけた古道であった。 
仙台市岩切の東光寺から東への道が「おくのほそ道」だが、いまは泉区から通じるアスファルト道路になっている。
そのさきの多賀城は、 奈良時代に蝦夷鎮圧のためにおかれた国府跡で、朝廷の基地であった。
芭蕉が涙が落ちるばかりに感動したという壺の碑は、格子窓の覆堂に包まれて南門跡に建っている。
一説に は偽碑といわれる。
そのあと、塩竈神社、松島へ行き、瑞巌寺は「のこらず見物」した。

松島は『ほそ道』の序文で「松嶋の月先心にかゝりて」と書いている。芭蕉が一番行きたかった地である。
「旬が浮かばず眠ろうとしたが眠れない」と告白している。
あまりに絶景のために句が生まれない、という。
それで、曾良の句として、

松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす

を書き留めたが、芭蕉の吟である。
松島では、鶴の姿に身をかりて鳴き渡ってくれ、ほととぎすよ、というよびかけで、
松に鶴は付合いである。


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