文月(ふみづき)は七月七日に七夕の月で、
七夕の日には和歌を読む(文を読む)ので”文月”となったそうだ。
六日の発句会で、芭蕉先生は七夕を待ちきれない純情なような、楽しさを感じる句を詠んだ。
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旅の場所・新潟県糸魚川市
旅の日・2020年1月28日
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉
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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行
越後
酒田の人々と名残を惜しんで日を重ねていたが、
これから出で立つべき北陸道の空を遠く望み、はるばるの旅の思いに胸を痛めた。
加賀の国府金沢までは、百三十里と聞いた。
鼠の関を越えると、越後の地に足を踏み入れ、越中の国市振の関に至った。
このあいだ七日、暑さと雨との辛労に心を悩まし、病気が起って、出来事を記さなかった。
文月や六日も常の夜には似ず
(七月と言えば、六日もふだんの夜とは違って、はなやいだ気持がする。
六日は七夕の前夜である。)
直江津では七夕の前夜も暖かな祭をする風習があったという。
だがこの句は牽牛織女の二星が一年ぶりに会うという前夜だから、
空の様子も常の夜とは変って、なんとなくなまめいた趣に見え、
おのずから心がときめいてくるといったのである。
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「日本詩人選17松尾芭蕉」 尾形仂 筑摩書房 昭和46年発行
文月や六日も常の夜には似ず
『おくのほそ道』越後路の条に、「この間九日、暑湿の労に神を悩まし、病おこりて事をしるさず」として、
「荒海や佐渡に横たふ天の河」の旬と併出する。
曽良の『随行日記』『俳諧書留』によれば、元禄二年七月六日夜、
直江津で左栗・眠疇・此竹・布嚢・右雪ら土地の俳人たちに曽良を交えて催された八吟二十旬の発句として披露されたもの。
「七夕近き夕べ、越の今町(直江津)といふ所に草枕す。
この所の人々尋ね訪れて、風雅のことどもなんど語り慰みて」という前書は、すなわち当時のものであろう。
「文月」は、陰暦七月の異称で、真淵・宣長・士清らはその語源を「穂含み月」ないし「穂見月」として農耕に関係づけて説いている。
「文月」という季語の中には、すでに「七夕」のイメージが内包されているわけで、「六日」というのは、その「七夕」のイメージを前提とした上での、その前夜。
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