春場所が終わり、3月28日は夏場所の番附編成会議が行なわれた。
銀河大角力協会
しばらくないと思っていた大関昇進者だが、先場所最後まで優勝を争っていた関脇の鶴竜(井筒、モンゴル)が、6人目の大関として昇進。口上は「これからも稽古に精進し、お客様に喜んでもらえるような相撲が取れるよう努力します」と、二子山勢が使っていた四字熟語は、稀勢の里に続いて使用していない。そもそも、何で外国力士が日本人でも使わないような熟語を探してこなきゃならんのかと、疑問に思ったものだ。
番附上の大関6人は史上初である。東西に必ず1人ずつ(計2人)の原則を崩して、天保7年11月に稲妻が番附外出場して3大関が登場。明治14年1月、境川が張出(地位は書いてない)となって、番附上初の3大関。
明治23年5月、新大関(正大関)が加わって張出にされた西ノ海が、横綱免許にもかかわらず張出に難色を示したため、番附上に「横綱」と明記。この場所は横綱・大関合わせて4人。横綱が「地位」と認定されたのはずっと後だが、横綱がいれば「大関」在位者がいなくても横綱が兼務できると解釈。29年5月には、横綱の小錦が「大関横綱」と表示。正規の大関は大戸平のみだった。
明治37年1月は梅ケ谷と常陸山がともに横綱免許で、両者「大関横綱」と表示、大関が1人もいない珍番附(3場所続く)。
明治43年1月、2代目西ノ海が大関に上がり東西とも張出大関が在位し、初の4大関。
大正7年5月、栃木山が横綱免許で東方のみ3横綱。東西制なので西方は1横綱という不均衡だが、片側3横綱は唯一の例。この場所千葉ケ崎が大関に上がり、西方のみ3大関。大関も片側3大関は初。
昭和22年6月、汐ノ海が大関に上がり初の5大関。横綱・大関の合計人数では、4横綱4大関で計8人が最高。関脇も5人が最高。
平成24年5月、鶴竜が大関に上がって6大関。東西ともに正位以外2人というのも、もちろん初である。
十枚目昇進者も発表された。
北園改メ政風(尾車、長崎県)と佐久間山改メ常幸龍(北の湖預り→4月1日より木瀬へ転属、東京都)が新昇進、勝龍(北の湖預り→4月1日より木瀬へ復帰、奈良県)と誉富士(伊勢ケ濱、青森県)が再昇進。陥落の星だった北勝国と北磻磨は残留か。
番附発表は4月23日。初日が5月6日と早いので、発表まで間がない状態である。去年は寂しい技量審査場所だったが、さて?
銀河大角力協会
しばらくないと思っていた大関昇進者だが、先場所最後まで優勝を争っていた関脇の鶴竜(井筒、モンゴル)が、6人目の大関として昇進。口上は「これからも稽古に精進し、お客様に喜んでもらえるような相撲が取れるよう努力します」と、二子山勢が使っていた四字熟語は、稀勢の里に続いて使用していない。そもそも、何で外国力士が日本人でも使わないような熟語を探してこなきゃならんのかと、疑問に思ったものだ。
番附上の大関6人は史上初である。東西に必ず1人ずつ(計2人)の原則を崩して、天保7年11月に稲妻が番附外出場して3大関が登場。明治14年1月、境川が張出(地位は書いてない)となって、番附上初の3大関。
明治23年5月、新大関(正大関)が加わって張出にされた西ノ海が、横綱免許にもかかわらず張出に難色を示したため、番附上に「横綱」と明記。この場所は横綱・大関合わせて4人。横綱が「地位」と認定されたのはずっと後だが、横綱がいれば「大関」在位者がいなくても横綱が兼務できると解釈。29年5月には、横綱の小錦が「大関横綱」と表示。正規の大関は大戸平のみだった。
明治37年1月は梅ケ谷と常陸山がともに横綱免許で、両者「大関横綱」と表示、大関が1人もいない珍番附(3場所続く)。
明治43年1月、2代目西ノ海が大関に上がり東西とも張出大関が在位し、初の4大関。
大正7年5月、栃木山が横綱免許で東方のみ3横綱。東西制なので西方は1横綱という不均衡だが、片側3横綱は唯一の例。この場所千葉ケ崎が大関に上がり、西方のみ3大関。大関も片側3大関は初。
昭和22年6月、汐ノ海が大関に上がり初の5大関。横綱・大関の合計人数では、4横綱4大関で計8人が最高。関脇も5人が最高。
平成24年5月、鶴竜が大関に上がって6大関。東西ともに正位以外2人というのも、もちろん初である。
十枚目昇進者も発表された。
北園改メ政風(尾車、長崎県)と佐久間山改メ常幸龍(北の湖預り→4月1日より木瀬へ転属、東京都)が新昇進、勝龍(北の湖預り→4月1日より木瀬へ復帰、奈良県)と誉富士(伊勢ケ濱、青森県)が再昇進。陥落の星だった北勝国と北磻磨は残留か。
番附発表は4月23日。初日が5月6日と早いので、発表まで間がない状態である。去年は寂しい技量審査場所だったが、さて?