若さのように根拠のない唯我独尊な「可能性」は年々少なくなっていることは実感している。しかし年を食うということは良くも悪くも「手段」を手に入れるということである。手段を受け入れると言い換えてもいい。手段という言葉は取りようによってはネガティブが捉えられることだってあると思うのだが、「非常時」という言葉を使いながら行動力のなくなってしまった自分のエクスキューズを探すことほど惨めなものはない。「非常時」というのは自分の思い(美学と言ってもいいが)だけではどうにもならない状況を指すのであり、本当に今が「非常時」であるならば、やるかやらないか、それだけの話である。それがロックンロールというものだ。
だから今日は芝公園23号地へ行った。
数多くのミュージシャンが参加した「イベント」である高円寺組とは違い、浜岡原発反対を明確なメインテーマにしていた芝公園の反対集会には実に多くの「団体」が参加していた。集合場所に着いた頃には集会は始まっていて浜岡の塚本千代子さんや翻訳家の池田香代子さんや菜の花運動の女の子のスピーチが行われていた。参加者の主体が年季の入った中高年ということでデモ出発前には「勝利を我らに」が歌われるという何とも由緒正しい集会(斉藤和義の「ずっとウソだった」も早速歌われた)。
しかしオレのようなフリーの立場の人間もずっと多かったと思う。
もちろんエスパルスのパーカーを着て参加した。静岡出身者として、エスパルスサポとして浜岡反対なのだから。パルちゃんフラッグも持っていこうかと思ったが、絶対伝わりにくいと思ったので、これは止めた。
これはJリーグのゴール裏の風景と同じだと思った。
以前浦和レッズのゴール裏に<憲法9条護持>を掲げる団体が現れ、物議を醸したことがあった。サポというのは<自分が愛するチームをひたすら応援する>という、実にか細い、ただ一点だけで集まっている社会でしかないのだが、その一点だけで数千、数万の思想信条も違う人間がスタジアムに集まる。そこに<9条護持>が持ち込まれる是非は別として、社会であるのだからオレは思想信条が違っていて当然、違っているからこそ意味があると思うのだ。そして違っていたとしてもオレらの主語は(個々にいろいろと思うところはあるだろうけれども)<自分が愛するチームをひたすら応援する>でしかないことに価値がある。
組織への嫌悪や思いがあろうがなかろうが、デモだって同じ話だ。
基本的にチャントは歌うが、賛同できないチャントを歌う歌わないは自由である。歌いたくなかったら別の声を出す。ピンサポというのはそういうものだ。シュプレヒコールも同意できないものは声を出さなかった。それでも何だかわからないけど最終的には先頭集団で歩いていたけれども。
経済産業省の前を過ぎて、数多くの警官に守られた東電前に差し掛かる頃にはさすがに周囲の声もひと際大きくなった。この人たちには明確に伝えたい言葉があって、伝えるべき相手がいる(相手は休日だけど)。伝えるべき言葉があるというのは大事なことだよ。
整然と歩くデモの列は長く長く続いた。
デモの途中、信号待ちをしていた女連れのオヤジに「だったら電気使うな!」と陳腐な論理でしつこく罵倒された。このオヤジ、警官に制止されるまで野次っていた。
「もう一方の世間の声」というのはそういうもんなのである。
それはわかってる。
しかし、まあ、負けずに「こっち側の世間の声」もオヤジを罵倒…というか言い返していたんだけれども。
16時過ぎに芝公園組のデモが終わってから高円寺へ向かった。そこで起こったことさまざまなところで書かれるだろうから、ここではいちいち書かないけれども十分ニュースなイベントになっていた(ニュースとして放送されたかは別として)。確かに物凄い雰囲気になっていた。ただそれは、正直に言えば芝公園とはあまりにも対照的で自己完結的な雰囲気も無きにしも非ずだったんだけど、まあそれが高円寺、ということだろう。
願わくば「もう一方の世間」と真正面から対峙するために芝公園組と高円寺組の早期の合流を、という感じですね。
まあここからがスタートです。
(4月11日加筆修正)
追記:Twitterで「迷惑をかけないデモはデモではない」というツイートがあったけれども、その言葉には心から同意する。端的に言ってしまえば、社会を揺るがすということはそういうことである。その意味では高円寺の意味は大きい。このブログでも3・11前のあまりにも不寛容な「迷惑排除の論理」には不同意し続けてきたつもりなんだよね。