「さからいさえしなければ、私たちなんか、ただの世間にしかすぎなかったのに……」
原点なんていう偉そうな背景はないのだけれども、子供の頃からずっとトラウマのように安部公房の戯曲『友達』(1967)の有名なの台詞が頭から離れず、時々思い出す。
有名な作品だし、改めて書くことでもないのだけれども『友達』はそれ以前に書かれた『闖入者』という小説を下敷きにしている。下敷きにしてはいるが、作者曰く、
<テーマもプロットも、まったくちがっている。もし、脚色と原作が同一人物でなかったら、二人は生涯許し合えない敵になってしまうだろう。私が、私自身であったことを感謝する。>(安部公房『友達/榎本武揚』河出書房 あとがき)
タイトルの通り、一人のサラリーマンの部屋に見知らぬ家族が押しかけ住み着いてしまうという悪夢のような物語なのだが、一方が権利を主張する「闖入者」としてが描かれるのに対して、もう一方は(少なくとも一見)悪意のない「友人愛」「隣人愛」を押し付け、部屋に居座り、主人公を死に追いやってしまう。安部公房はさらにこう書いている。
<非常な多数決原理で襲いかかった「闖入者」たちが、こんどは、親愛なる同朋として、「友情」の押し売りをはじめたというわけだ。プロットには共通性があるが、テーマはすっかり変質してしまった。「闖入者」を「友達」という、いささかトボケた題名に変えることによって、私は偽似共同体のシンボル(明治百年、紀元節の復活、等々)に対する、われわれの内部の弱さと盲点を、その内部からあばいてみようと考えたわけである。>(安部公房『安部公房全集』新潮社 「友達―『闖入者』」)
89年だって思い出したし、2012年も思い出している。
ところで、同じようなプロットが藤子不二雄A(安孫子素雄)先生の『笑ゥせぇるすまん』のエピソードとして描かれているそうなのだけれども、オレ、アニメ版の「サザエさん」でも観たような記憶があるのだけれども、これは空脳だろうか…。
一時期そういう悪夢見てたもの。