徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

東京都「はだしのゲン」撤去請願マップ

2014-02-21 23:59:59 | News Map

■「はだしのゲン」の撤去を求める請願や陳情が出された東京都内の自治体


■各都県教委の状況
<請願は「旧日本軍の残虐行為を捏造している」「天皇に対する侮辱や国歌の否定が含まれる」として、学校図書館などからの撤去を求めている。練馬区教委などに請願を出した「教育問題懇話会」の代表者は「史実をねじ曲げた思想宣伝の教材になっている。親や教員の指導がないまま、子供に読ませるには毒が強すぎる」と話した。一方、対抗する形で、都や練馬区などには、自由に閲覧できるよう求める請願も出された。都教委は1月「幅広い知識を身に付けさせるため、さまざまな資料が必要」として、いずれの請願にも応じないことを決めた。一方で「一部に教育上の配慮が必要な暴力的表現がある」とも指摘。校長や教委関係者の会議で、適切な読書指導を行うよう衆知した。>
(東京新聞2014年2月21日付 変質する「平和」はだしのゲン都内で撤去請願/教委・議会に14件)

丸川哲史「核とナショナリズム」より

2014-02-21 17:51:16 | News
アジアでは1964年に中国が核実験をやりましたけれども、それはかなり画期的といいますか、大きな転換点になるわけですけれども、その動機をずっと遡っていきますと、朝鮮戦争というのは一番大きいわけですよね。
朝鮮戦争のときに(アメリカ軍が)原爆投下をする可能性がかなり高まっていた時期がありまして、おそらく中国の東北部に落とすだろうと(可能性が)一番大きかったわけですけれども、そういうことの連続性の中に中国現代史というのはあるわけで、やはりそこまで遡って考えると、やはりどうしても自分たちの国を守るというかなり直結したですね、主権に結びついたところでやはり核開発はなされているので、日本と違って完全に国家の内部にそれを作るということが意識化されているんですね。

(その観点から日本の「核の平和利用」は)例えば広島という都市自身を平和という方向へ意味変換するわけじゃないですか。そういったこと自体が中国人からすると、おそらくあまりよくわからないと思うんですね。遡ると広島というのは軍事都市だったわけですから、そこにかなり意味転換の要素があって、平和の都市に生まれ変わると、これ自身は日本人の真の願いだと思うんですけれども、そういった自身は日本の中で行われた、あるいはアメリカとの関わりの中で起きたことですから、非常に微妙な問題だと思うんですね。
ちょっとだけ注釈しますと、つまり例えば47年に広島平和祭というのが行われるわけですけれども、途中で1950年に中止になるわけですね。つまり朝鮮戦争が起きるからだと思うんですね。53年まで中止になりまして、54年に改めて広島平和祈念式典という、我々が知っている平和祭の形ができるわけですけれども、そういう空白があること自体がある種、日本の特殊性といいますか、今日の話、後の話になると思いますが、日本のナショナリズム、あとアメリカとの関係というような意味で非常に重要な論点になるんじゃないか。
つまり朝鮮戦争の期間(に)広島の平和祭自身が中止されていたという問題ですよね。こういうことの欠落を埋めないと核の意味合いは違うと思うんですよ。つまりその頃、中国は参戦していたわけですから。そういう欠落を埋めないとお互いに、どうしてそのような問題になるのかということがわからなくなってくる。

それはアメリカ軍、GHQにとってみても、平和祭(が)どういった意味合いを持つのかという(のは)、非常に微妙なものがありまして。例えば私は広島の平和祈念館に行ったんですけれども、戦前含めていろんなパネルがあったんですけれども、非常に面白いなと思ったのは、ちょうど朝鮮戦争が行われているときに、広島市長がパリに行っているんですね。彼は朝鮮戦争における核兵器の使用について反対であるということを談話で発表している。これは非常に重要なことで、そういうことは広島にとって非常に重要な歴史だと思うんですけど、平和祭という問題の中に朝鮮戦争批判なるものが入っては困るということを類推せざるを得ないと思うんですね。
そういう意味で言いますと、広島のことを編年体的に追ったとしてもそういう事実があるわけであって、それがなぜ中止に追い込まれるかということを考えないと、日本におけるある種の平和運動といいますか、核に対する対応がどういうものであったのかということは、単純ではないと思うんですね。やはり東アジアの状況と連動していたということが、やはり復元されるべき歴史だと思うんですね。

■原子力の平和利用への期待
広島平和宣言
1954年「原子力の適当なる管理を全世界に訴える」
長崎平和宣言
1949年「偉大なる原子力は世界平和のため人類の福祉に貢献せられんことを熱願する」
1951年「原子力を平和の手にする猛運動を巻き起こし、人類の平和維持のために闘はんとする」


東アジアの文脈で言うと、日本で私たちが中学高校で習ったときの三原則ってあると思うんです。主権在民と平和主義と基本的人権の尊重、こういうことがセットになって日本(で)どういう教育(が)されているかということに関して、実は東アジアの人たちは知らないわけですし、平和主義ということ自身は日本人の中である種、当たり前の、空気のように吸っているということがあると思うんですよね。独特の日本人のイメージはあると思いますし、それがある種、普遍的なものであるということも、おそらく日本人は含意していると思うんですね。

しかし普遍的なものであるかどうかは、やはり東アジアの視点からすると、例えば先ほどから言っています平和祈念式典に(東アジアの人たちは)行けないですよね。つまり第二次世界大戦のトドメを刺した、ある種の一撃と考えられますから、ある意味でそこへ行くことはあり得ないわけですよ。日本以外の東アジアの常識としては、そこへは行かないんですよね。
ということは、それは普遍的ではないということなんですよ。政治的な文脈を背負って、そこへ行かないということを決断しているわけですから。行かないことが常識なわけですよね。行かないことが常識だということが東アジアの中で埋め込まれている。
ということは、それは日本人にとってみると広島・長崎というのは普遍的な、ある種人類に対する問いとしてあると思うんですけど、実際に東アジアの視点からすると普遍的と言えるか。逆に言うとカッコ付きの、日本的な普遍主義であるとしか言いようがないようなものとしてある。ということはある種日本人が持っている平和主義のイメージがかなり限定付きなものである、ということは考えざるを得ないと思いますし。

有名なエピソードではありますが、広島の原爆死没者の慰霊碑の文句ですよね。「安らかにお眠り下さい、過ちは繰り返しませんから」。この主語は誰かということは書かれない、書くことはできないわけですよね。例えば誰が原爆を投下したかということは文句(文言)に書くことはできないということですよね。そうするとつまり普遍主義という構図を考えるとすれば、普遍主義は誰が誰に対してということを明示しなければストーリーにならないわけですよね。しかし文句は非常に曖昧なものであって誰がどういう関係で原爆が投下されて、誰がどこに投下して、それが(いかに)悲惨なものなのかということは叙述されていないわけですから、そういったことがある種日本的な、ある種特殊的な普遍主義を意味していると言わざるを得ない。
実際に中国や韓国や台湾の人たちはこの碑文を知らないんですよ。内容は。で、おそらく日本人も知らない可能性はありますよね。だからこの碑文が持っている言葉の構造といいますか、何なのかということ自身は踏まえられるべきなんじゃないかと私は思いますね。

日本は独自に核開発できるか。誰がどのように目指すか、誰の視点でそれを見るかという話にどうしてもならざるを得ない。つまりこれは、ずっと戦後の社会の中にある考え方として、自分たちは核武装したいという欲望が、どこかの勢力といいますか、日本人の思想家なり政治家なりにずっとあったわけですよね。しかしある意味それはブラックボックスといいますか、かなり秘密裏にやろうとして、しかしまあ「無理かなあ」みたいな感じでと消えた側面がある。つまり佐藤栄作政権のときにそういうことは一度考えたわけですね。しかしそれはやはりできないだろうという判断があってですね、非核三原則を言うという方向に行くと、僕は思っているんで。
というのは面白いことに、日本の首相自体がですね、広島の平和式典に言ったのは1971年が始まりですからね。それまでは行っていないんですよ。ということはそれまでは態度を決定していないということなんですね。勿論平和主義ですし、核兵器(を)作らないということは何となく日本人は期待しています(し)そのように動くだろうということはありますけど、71年まで日本の首相は平和式典に行っていないわけですから、その事実は考えなきゃいけないと思う。

1949年 湯川秀樹、日本人として初めてノーベル賞を受賞
1952年 漫画「鉄腕アトム」の連載がはじまる(1968年まで)
1953年 米アイゼンハワー大統領、国連総会で「アトムズ・フォー・ピース」演説
1954年 第五福竜丸、ビキニ環礁でアメリカの水爆実験により被災
1955年 原子力平和利用博覧会
1967年 佐藤栄作首相が衆院予算委員会で初めて「非核三原則」を表明


私の父親自身は理科系で、やはり湯川秀樹氏を非常に尊敬する世代なんですね。彼のノーベル賞受賞なんかに勇気付けられてそっちの方向に、大学に入るという世代なんですけど、でも単純に調べれば、例えば彼とか戦中に核開発に関わっていた人物であるとか、調べればわりと出てくる話だと思うんですよ。
そうするとうがった見方をするとですね、平和って意味転換そのもの自身が、ある種、無意識的な意図的といいますか、そういうふうにも聞こえざるを得ない。つまり湯川秀樹氏(のような)、ああいった良心的な理科系の知識人といわれている人はその後反核運動にまい進するわけですけれども、実際戦中には核研究の一員になっていたということですね。これを鮮明にしていないということがあると思います。

核開発をするときの歴史状況というものが、例えばドイツとかアメリカ、まあ日本も含めて第二次世界大戦の途中だと思うんですね。「途中」という文脈が強いわけですから、ある種…世界大戦の最中という文脈があると思うんですね。
第三世界の、特に中国(の核開発)の場合には冷戦下に入りますから、ちょっとそれはまた違うという考え方を私は持っています。中国の場合、その後インドになりますけれども、先ほど言ったけれども「主権」だと思うんですよ。かなり反対されるというか、つまり第二次世界大戦のときは競争ですよね。世界大戦中ですから誰しもそれにまい進しますし、それを抑止する上のものはないわけです。しかし冷戦期に入りますと、それを抑止するという視線ですよね。中国の場合はアメリカがありますし、それからソ連がありますよね。上からの視点でそれを抑え込むという力に対して、それに反発する形で第三世界の場合は核を持つわけですから、より純粋な形で主権を守るという文脈は第三世界の方が顕著に見える。そういうことになるんじゃないかなと私は思う。

中国の首脳は核兵器に対して使わないし持たないという姿勢があったんですよ。
ということはこの中(現視力平和利用博覧会)に中国は入っているということになるんですよね。つまり平和というタームを自分たちも共有するというか。原子力の平和利用ということを55年に西側ではいいますよね。そのとき中国の側、第三世界主義は自分たちは核を持たない、核兵器を持たないという立場でうっすらつながっている側面があって、つまり1950年代は中国が核兵器を開発(する)前は、日本のインテリの考え方の中では、中国が平和勢力というものの中に完全に入るわけですよね。(そういう)構図はあったことが前提で、64年になって中国が核兵器を開発したということになって、そのときにおそらく、いろんな資料でもありますけれども、日本の左翼勢力は動揺が走ることになる。
その前から例えばソ連の核は「良い」という議論も左翼の中にはあったんですよね。そこで(中国が核開発したことで)動揺が走るということで、60年代にあったということも整理する必要があると思う。世界にとって誰が平和勢力であるのかということはそれなりにかなり大きく変化してきたと思いますし、その中で今の日本人にとってみると、中国というのは平和な国家であるのかどうかはわからなくなっていると思うんですよね。

興味深いことに64年の中国の核実験に対する反応というものはですね、アメリカ合衆国側はやはり道徳的な意味は問わないんですよ。核兵器を開発してしまった近代国家として認めざるを得ないという方向に考えざるを得ないですね。
で、日本の側は反核運動、平和主義がありますからある種の幻滅みたいなものが起きるわけですね。こういうことは興味深いと思うんです。これはどういう文脈につながるかというと、結局中国が64年に核実験をやりますけれども、当時は主にアメリカ(ソ連)に対する牽制もありますけれども、これは72年の米中の接近ですよね。つながらざるを得ないように見える。つまりアメリカ合衆国は中国を一人前の国として認めるような儀式として64年があるように見えてしまう。日本では決してこういう文脈は生まれないと思うんですよ。だけども実際に、先ほど話しましたけれども、佐藤首相がですね、やはり核兵器の開発を決意したのはやはり64年の衝撃が大きかったからだと思うんですよ。それは隠さざるを得ないからずっと秘密裏にされてきたわけじゃないですか。だけど最終的に断念して71年に非核三原則を言って、広島の平和式典に出るという決断がありますから、
これは60年代後半に日本の上層部においては、ある種の判断をせざるを得ない時期があったと思うんですね。自分たちが核兵器を持つことができるかどうかということを突き詰めて考えた時間が60年代後半にあったと思わざるを得ないですね。

丸川哲史「核とナショナリズム」(朝日ニュースター「ニュースの深層」2011年7月放送)より