徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

自己評価の問題

2011-04-13 12:17:15 | News
日本政府のレベル7の発表に対してIAEA、ロシア原子力公社が異議を表明した。
「2つのレベル7」の事故の発生状況、急性放射線症などでの健康被害の発生状況、原子炉周辺の損傷状況などの違いから言って福島はチェルノブイルには達しておらず、IAEAは「比較対象にならない」とし、ロシア原子力公社は「レベル5を超えていない」との見解を示した。さらにアメリカのABCは「新しい脅威がないにも関わらず」レベル7に引き上げたと報道した。

結局は事故直後から言われていた<スリーマイル以上、チェルノブイリ未満>という状況は変わっていないんじゃないか。だからこそ政府や関係機関は、改めてスリーマイルではなく、チェルノブイリでもない、フクシマという自己(事故)評価をしなければならないんじゃないか。それこそ尺度が杓子定規になってしまっては現状を見失ってしまう。現状では事故はいまだに進行中であり、放射線物質の放出は止まっていないし、炉の安定までにはまだ遠く、福島で新たな避難民を生み出し続けているのだから。

こんなにあやふやな事故評価をしているとちょっと穿った見方もしたくなる。
「避難範囲や出荷停止範囲(品目)を拡げますよ、ほら、国際的な事故評価尺度に合せるとレベル7だから」
もしくは、
「政府、東電、保安院は何にも隠してないですよ。だってレベル7まで認めちゃいましたから」
みたいな感じだろうか。そんな気もする。
そういう意味では原子力委員会の「インパクトはない」というコメントは実に冷静だった、とは言える。
ロシアやアメリカの政治的な思惑は別として。

政府や公の機関による事故評価ならぬ「自己評価」の表明が厳しければ厳しいほど国民はコントロールしやすくなる。内実の伴わない<財政赤字大国日本>キャンペーンとかね。まあ、これもショック・ドクトリンみたいなもんなんだろうか…。

ふたつのレベル7

2011-04-13 03:21:28 | News
福島の原発事故がINES(国際原子力・放射線事象評価尺度)の事故評価でチェルノブイリ級のレベル7と評価された。

東電はレベル7に対して「(放射性物質の放出量から見て)チェルノブイリ事故に匹敵する、あるいは超えるかもしれない事故になったことを重く受け止めている」と謝罪した。
内閣府原子力委員会委員長はレベル7に対して「それほどのインパクトはない。原子力行政が変わるものではない」と言う。
経済産業省原子力安全・保安院はレベル7だが「放出量は同事故の約10分の1とみられる」と言う。
そして首相は「事故は安定に向かっている。レベル7に“なった”のではなくレベル7であることが“わかった”」と言った。

レベル7、チェルノブイリ級というフレーズに騒ぐ人間を批判する声もある。確かにチェルノブイリと福島では事故そのもの状況がまったく違うわけで、必ずしも「2つのレベル7」を同じように重ね合わせて見ることはできない。
しかしこれで当局・関係者が事態をどのように見ているのかがはっきりとわかる。
現在「レベル7になったのではなく」、事故発生から数時間だけでも1時間当たり最大1万テラベクレルの放射性物質を放出しながら、事故から一ヶ月経った昨日になって「レベル7であることがわかった」。「チェルノブイリに匹敵する放射性物質の放出量」ではあるが、評価に対しては「インパクトはない」。なぜなら「現在の放出量はチェルノブイリの10分の1」である上に現在「事故は安定に向かっている」のだから。
それなら何故「インパクトはない」のに今更レベル7なんだろう。
彼らにとってはレベル7は「過去」なのだろう。しかしレベル7の状態は確実にあった(INESは、「数万テラベクレル」相当の放射性物質の外部放出がある場合をレベル7と定めている)。
その状態で何も知らないまま東日本に住む人間はほぼ放置された/されていた。何か、絶望的なほどの危機感の薄さと対応の遅さを感じざるを得ない。
しかもほとんど誰も福島が「安定」などしていないことは予感している。いまだに炉を安定して冷却するための準備段階の準備(あーめんどくせェ!)で手間取っている状況、ましてや東京の人間でさえ昨日、一昨日の余震を体験すれば、現場の方々の健闘と無事こそ心から祈ってはいるものの、実感としてそれほど楽観的になれるはずもない。
原子力委員会が「インパクトはない」と言ったとしても、それでも最悪の評価尺度はそれなりのインパクトを国内外に与える。
しかしなぜ、それが震災から一ヶ月なんだ?
そしてなぜ、今、レベル7なのかが、やはりよくわからない。
「震災から一ヶ月」という、あまりにも形式的な節目にいろんなことが起こり過ぎて馬鹿馬鹿しくもなりつつも、やはり慎重に、粘り強くヲチしていく必要がある。

菅首相は復興へのメッセージをアナウンスしたが、同時に福島では新しい被災者が生まれようとしている。まったく嫌になるぐらい、震災/人災がいまだに続いていることを実感する。
凄まじい批判に晒されている菅さんは「何か」の捨て石になろうとしていないか? そんな予感もしているんだが…。
(4月13日追記・修正)

悪が勝つ(再掲)

2011-04-12 03:30:50 | VIBE RHYME
「この危機感を、どうしてみんなはもっと世界的なレヴェルで感じないんだろう。地球的な環境がどうこうじゃなく、ぼくたちのミクロコスモス、つまり内面的な部分でのエントロピーがすごく増大してるんだってことをね。でも、エントロピーの増大は絶対阻止できないから。もしかしたら共産主義ってのは、そういう増大するエントロピーに対する最後の歯止めだったかもしれないよね」
--でも、その共産主義が、今、ある意味で敗北しつつある。
「うん、力の論理の方が正しいってことの証明だと思う。ぼくたちは、最終的に悪が勝つ、ヤクザが勝つってことを前提にこれから物事を考えていかなければならないところにまですでに追い込まれてる。にもかかわらず、なんかやっぱり最終的には正義が勝つんじゃないかという、曖昧な、全然根拠のない理想をぼんやり信じながら暮らしてるわけだよね。(中略)これだけの文化を作ってきた人間が滅びるときに、どういう形で滅びるべきかってことを、捨て鉢にならずに見せていかなきゃならない。たぶん今、若い世代の黒人たちは本能的にそういう闘いを続けているんだと思う」
--それがヒップホップ最大のメッセージ?
「うん。つまり、現実はもう動かしようがないとして、でも、現実がこうだからしょうがないじゃないかって降りるんじゃなく、その中でも素晴らしい何かを生み出していく、と」(1989年11月)
(近田春夫×萩原健太「ポップス・イン・ジャパン」新潮文庫より)

昔は良かったと言わないために

2011-04-12 02:16:48 | News
TL上であまりに2つのデモの様相が違っていたために高円寺を際立たせるように芝公園の動きを「形式的」と腐すようなイメージで書いている人がいたので念のために書いておく。
芝公園にしても高円寺にしても容易に批判はできる。あまり高円寺を批判したくはないのだけれども、今回の高円寺は数多くのミュージシャンやDJが参加したサウンドデモであり、イベント色が強いものであったからこそ劇的にハードルが下がり、「若者」が集まった。とにかく参加者を集めてニュースにするのが目的であったのだろうから、「若者」を中心に数多くの参加者が集まったのは確かに素晴らしいことだと思う。
しかしこれは現在だけの話ではない。20数年前だって、チェルノブイリでの事故を受けた、純粋で、若干ヒステリー気味の危機感から数多くの「若者」が数多く参加した集会が行われたのだ。決して彼らは昔ながらの運動家風情ではなく「普通の若者」たちだったと思うよ。
その時代にまったく何も成果がなかったようなことは言いたくない。ましてや安直な世代論なんかで語りたくない。

20数年前のかつての若者たちも、またその10年、20年前のオールドボーイたちも、時代を経て、「手段」を積み上げて昨日の日曜日がある。
若気の至りでいる間は何にも「声」にはならない。若気の至りの季節を、ある時期から「卒業」しがちな(させたがる)一部の日本人は、あまりにも月日の積み重ねを軽く見すぎている。声ってのは言い続けることだけに意味がある。
特にTwitter経由で反(脱)原発系サイトが楽天的に高円寺を持ち上げるのはまったく意味のないことで、大きな流れを阻害さえしかねない。それは特定の人たちにとっては組み易く、コントロールしやすいってことだぜ?

一ヶ月

2011-04-11 02:48:41 | News
結局、原発問題は都知事選の争点にならなかった。あれほど蔓延した買い貯めはやはり空騒ぎだったのか。
そりゃ「非常時」でないのならば妥当なのかもしれないのだが、東京、というか日本って「非常時」じゃないの? てか自分に都合のいい物語で語られ(騙られ)ても困るんだよ…何だかよくわからない結果になってしまった、震災からちょうど1ヶ月。皮肉だ。
もはやオレにはポジティブな意味で閣下の下、東京解体が見えてくるんだけど。
まあ、こちらもこれからスタートですな。

それにしても敗れた候補者のインタビューが殊の外さばさばというよりも、むしろ本気で勝つ気があったのだろうかと思えてしまうのは何故なんだろう…。

以前、治ちゃんが日本人と「終わるということ」についてどこかに書いていたような記憶がある…のでちと探してみるか。

芝公園23号地/浜岡原発すぐ止めて! 4・10

2011-04-11 02:27:03 | News


若さのように根拠のない唯我独尊な「可能性」は年々少なくなっていることは実感している。しかし年を食うということは良くも悪くも「手段」を手に入れるということである。手段を受け入れると言い換えてもいい。手段という言葉は取りようによってはネガティブが捉えられることだってあると思うのだが、「非常時」という言葉を使いながら行動力のなくなってしまった自分のエクスキューズを探すことほど惨めなものはない。「非常時」というのは自分の思い(美学と言ってもいいが)だけではどうにもならない状況を指すのであり、本当に今が「非常時」であるならば、やるかやらないか、それだけの話である。それがロックンロールというものだ。
だから今日は芝公園23号地へ行った。
数多くのミュージシャンが参加した「イベント」である高円寺組とは違い、浜岡原発反対を明確なメインテーマにしていた芝公園の反対集会には実に多くの「団体」が参加していた。集合場所に着いた頃には集会は始まっていて浜岡の塚本千代子さんや翻訳家の池田香代子さんや菜の花運動の女の子のスピーチが行われていた。参加者の主体が年季の入った中高年ということでデモ出発前には「勝利を我らに」が歌われるという何とも由緒正しい集会(斉藤和義の「ずっとウソだった」も早速歌われた)。
しかしオレのようなフリーの立場の人間もずっと多かったと思う。
もちろんエスパルスのパーカーを着て参加した。静岡出身者として、エスパルスサポとして浜岡反対なのだから。パルちゃんフラッグも持っていこうかと思ったが、絶対伝わりにくいと思ったので、これは止めた。

これはJリーグのゴール裏の風景と同じだと思った。
以前浦和レッズのゴール裏に<憲法9条護持>を掲げる団体が現れ、物議を醸したことがあった。サポというのは<自分が愛するチームをひたすら応援する>という、実にか細い、ただ一点だけで集まっている社会でしかないのだが、その一点だけで数千、数万の思想信条も違う人間がスタジアムに集まる。そこに<9条護持>が持ち込まれる是非は別として、社会であるのだからオレは思想信条が違っていて当然、違っているからこそ意味があると思うのだ。そして違っていたとしてもオレらの主語は(個々にいろいろと思うところはあるだろうけれども)<自分が愛するチームをひたすら応援する>でしかないことに価値がある。
組織への嫌悪や思いがあろうがなかろうが、デモだって同じ話だ。
基本的にチャントは歌うが、賛同できないチャントを歌う歌わないは自由である。歌いたくなかったら別の声を出す。ピンサポというのはそういうものだ。シュプレヒコールも同意できないものは声を出さなかった。それでも何だかわからないけど最終的には先頭集団で歩いていたけれども。
経済産業省の前を過ぎて、数多くの警官に守られた東電前に差し掛かる頃にはさすがに周囲の声もひと際大きくなった。この人たちには明確に伝えたい言葉があって、伝えるべき相手がいる(相手は休日だけど)。伝えるべき言葉があるというのは大事なことだよ。
整然と歩くデモの列は長く長く続いた。

デモの途中、信号待ちをしていた女連れのオヤジに「だったら電気使うな!」と陳腐な論理でしつこく罵倒された。このオヤジ、警官に制止されるまで野次っていた。
「もう一方の世間の声」というのはそういうもんなのである。
それはわかってる。
しかし、まあ、負けずに「こっち側の世間の声」もオヤジを罵倒…というか言い返していたんだけれども。

16時過ぎに芝公園組のデモが終わってから高円寺へ向かった。そこで起こったことさまざまなところで書かれるだろうから、ここではいちいち書かないけれども十分ニュースなイベントになっていた(ニュースとして放送されたかは別として)。確かに物凄い雰囲気になっていた。ただそれは、正直に言えば芝公園とはあまりにも対照的で自己完結的な雰囲気も無きにしも非ずだったんだけど、まあそれが高円寺、ということだろう。

願わくば「もう一方の世間」と真正面から対峙するために芝公園組と高円寺組の早期の合流を、という感じですね。
まあここからがスタートです。

(4月11日加筆修正)
追記:Twitterで「迷惑をかけないデモはデモではない」というツイートがあったけれども、その言葉には心から同意する。端的に言ってしまえば、社会を揺るがすということはそういうことである。その意味では高円寺の意味は大きい。このブログでも3・11前のあまりにも不寛容な「迷惑排除の論理」には不同意し続けてきたつもりなんだよね。