塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

戦術の潮流と基本形

2013-10-01 23:31:14 | 日記
 スマートフォンの潮流を決定づけたアイ・フォンは、リーバイス501、コンバースのオールスターのような元祖として今後も
語られると思います。

 リーバイスもコンバースも、自社の看板製品を常に見つめ改良点を発見し、改善していることには本当に頭が下がります。

 同様にアップル社も、アイ・フォンを自社のアイコンとして、そして携帯端末の礎を築いた張本人として、今後も改善を重ねて
ゆくと思います。

 ノキアやブラックベリーのように、一時代を築いたブランドの商品が簡単に廃れる現在ですし、どんなブランドでも危機感と隣
あわせの世の中となりました。

 サッカー戦術も同様で、黎明期から21世紀の現在まで様々な議論が成されてきました。

 当然時代の潮流に合った戦術、当時は画期的と言われた戦術と、その内容は今まで幾重にも語られてきました。

 3バックの原型で言えば、アーセナルのハーバード・チャップマンが考案した「WM」システムが有名ですし、80年代にはド
イツとデンマークを軸に

 「3-5-2(3-3-2-2)」が主流となり、90年代には3-4-1-2、3-4-2-1という派生形が生まれます。

 オランダでは3-4-3が主流でしたが、余りに攻撃的すぎる面が目立ち、グアルディオラがセスク加入後幾度か使用しました
が、バルセロナでもその起用は驚きという形で語られました。

 現在は4バックの真っただ中ですが、ブラジル式の4-2-4が4-3-3に変化し、そして4-4-2という形に落ち着きます。

 しかし同じ4-4-2でも英国式のフラット型と、ブラジル式の箱型という塩梅に変化したように、同じ戦術でも地域によって、
取り入れ方は大きく異なります。

 4-4-1-1-、4-3-2-1、そして4-1-4-1と、そのバリエーションが多い事も4バックの魅力でしょうし、4-
2-3-1はピッチ全体に選手を配置できる為に、多くのクラブと代表が取り入れています。

 今後、新しい布陣が現れることは無いでしょうが、それでも新しい戦いを観たいのがファンの気持ちです。
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アンリのハンドから見るサッカーの倫理感

2013-10-01 02:02:33 | 日記
 勿論選手が倫理的に問題行動を起こした際、選手だけでなくその責任はクラブ、そしてスポンサーにも及びます。

 こうした甚大な被害が出た時はやはりメディアは選手の行動を批判せねばなりませんが、残念ながら憶測や中傷が起きることも
事実です。

 俳優とニュースキャスター、そして芸能リポーターも

 不倫、交通事故、麻薬、無免許運転

 といった、非倫理的な行動を起こす事がありますが、試合に敗れ勝ち点3を失うことは、これらに比肩するほど愚かで間抜けな行
為だとは言い切れない面があるような気がしてなりません。

 ティエリ・アンリが2010年ワールドカップの出場をかけたアイルランド戦で見せた

 「間違いのないハンド」

 は、彼の動作ではなくサッカーにおける倫理が問題になった為でした。

 アンリはハンドを認め、アイルランドもGKのシェイ・ギブンを筆頭に彼がハンドでゴールしたことを、主審にも線審にも訴えま
すが、不思議な事にこのハンドは全ての審判から

 「死角の位置」

 で起きたため、判定は覆りませんでした。

 この映像を観たエリック・カントナは

 「アンリが自らのハンドを認めたのち、うなだれるアイルランドの選手を慰めている」

 と評論しましたが、このハンドをきっかけに両国は危うく外交問題にまで発展しかねない、大騒動と言う形になりました。

 しかし、この時フランス国民のだれもが、翌年南アフリカの地でこのハンドを超える、最悪の問題が代表に起きるとは思いもしな
かった、だからこそアイルランドの関係者は

 「落ち着きと冷笑」

 を得たのかもしれませんが。

 結論を言えば、メディアとファンは選手を批判できますし、選手もその批判は受け入れなくてはなりません。

 しかし批判する方は感情的にならず、同時に嘘で固めた情報を流してはならず、あくまで人間の本質を無視した報道、批判はして
はならない、

 というのがそうです。
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選手を批判する際、どういう形が好ましいのか

2013-10-01 01:51:14 | 日記
 ファン、メディアは選手が覇気のない、無気力な試合を見せている際には試合中でも席を立つ権利がありますし、批判をする事
も必要でしょう。

 その一方でその批判が度を越え、選手生命をおびやかし、ひとりの人間としての尊厳を傷つける、そんな事があってはならない
とも思います。

 年と球団名は覚えていないのですが、米国ではワールドシリーズの第7戦でサヨナラを浴びたクローザーが、余りの罵声に精神
が耐え切れず

 「自殺して世を去る」

 という出来事があったと聞きます。

 サッカーもワールドカップ出場は今でこそ開催国が32に広がり、多少は楽になった感じがありますが、1990年ワールドカ
ップに向けてチリのロハスが、自ら忍ばせた剃刀で自分を傷つけて

 「自作自演」

 の妨害行為を働いた出来事がありました。

 こうした対戦相手に(この場合はブラジルでしたが)敬意を表せないようでは、批判はやはり免れませんし、汗を掻く事を怠る
ようでは選手の名が廃れます。

 しかし以前にも書きましたが、試合に敗れる事は犯罪では無く、倫理的価値観から外れているわけではありません。

 残念ながら近年は八百長が多く、アジアでのKリーグがこの問題で揺れる形になりましたが。

 むしろ選手を批評するメディアの方が、倫理観から外れている事の方が目立つくらいです。

 例えばテレビでは

 「発掘あるある大事典の納豆ダイエット問題」
 「セシウム発言」
 「芸人がロケ中、大怪我を負う」

 というように、選手を批判、罵る前に自分達の同僚に対し、自己批判を促すべきだと僕はどうしてもそう思うのです。

 理由は簡単で選手はメディアのあら探しと批判をしないためで、一方的に片側が批判をするのはどう見てもアンフェアだと感じ
る為です。
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