塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

サッカーの論評が難しい理由

2016-05-15 22:30:20 | 日記
 サッカーはつくづく難しいと痛感しますね。

 今日、南長野運動公園では長野パルセイロが男女でダブルヘッダーで試合開催があり、クラブも最新グッズの発売や両方観戦したファンに、優待券をプレゼント。

 という企画を準備するなど、催しも充実していました。

 レディースは1-5で敗戦
 トップは2-1で逆転勝利

 両試合とも観戦できていない僕からすれば、トップの後半の逆転劇、レディースの失点の多さなど、掲示板の書き込みは様々あるのだろうなと感じていました。

 でも多くの意見は
 

 「レディースは大敗したよ、でもまた観たいな」
 「2試合続けて観客が5000人を超えたことは素晴らしいね」
 「トップはあまり試合内容が芳しくない」

 というように、敗者への評判は高く、勝者への評判はさほど、というものです。

 勝てばよい、それでは選手も監督もファンも胸のつかえがとれない。

 サッカーは難しい競技です。

 他の競技であれば

 「勝ったか、めでたいね」
 「そうか、生観戦した甲斐があったな」

 という意見が勝てば主流です。

 サッカーも天皇杯のようなカップ戦であれば、勝てばよい、勝たなくては次の試合に挑めないという側面はあります。

 それでも勝つことの中に、選手交代、戦術、そして先発の顔ぶれなど、判断材料が多岐にわたる事。

 このややこしさもサッカーの論評なのですが。
 
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イブラに見る、言葉を覚えないという例外

2016-05-15 22:13:38 | 日記
 100年戦争以来、イングランドとフランスの折り合いが悪いという定説は変わりません。

 でもフランス、特にパリでは英語を話す方が多い上に、喫茶店でもきちんと紅茶が準備されていると聞きました。

 パリの方が旅行者を含む異国人に冷たいと感じる態度をとるのは

 「外国籍の人間も、フランスではフランス語を話すべき」
 「我々は、フランス語を守ってきた自負」

 があるからでしょうね。

 日本でもある種のスラング、例えば僕が大学の時ですと

 「チョベリバ」

 という言葉がはやりましたが、今では誰も用いませんし、なにより消えたスラングは時代を反映しても、生んだ、消えた、これらに対してだれも責任を負いません。

 過去、ナンバーで金子達仁氏が

 「プレミア・リーグはチョベリーグ」

 というコラムを掲載したことがありましたが、スラングは無視できないくらいの影響力があります。

 ですからフランスの方は、こうした言葉が滅びない事、そして発音の大切さを祖父母の祖父母の時代から見つめてきたわけです。

 言い換えれば、言葉を尊重していることを、誰よりも通関している形になります。

 ですから、ズラタンが

 「俺はフランス語を話す気はない」
 「エッフェル塔の代わりに、俺の銅像を建立すればパリに残留する

 というのは、彼らしい表現だと思いますが、言葉を学ばない外国籍の選手が、これだけ受け入れられたのは、凄い事という見解もできます。

 それだけ突出した存在であったこともあるのでしょうが、リーグ4連覇の立役者であれば、クラブのほうがフランス語で

 「メルシー」

 と声をかけて当たり前、とズラタン本人は感じているのでしょうか。
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実にデリケートなサッカー選手の親子関係

2016-05-15 01:11:10 | 日記
 僕の母は今でも運転免許証が無い為、僕と弟が病気になると

 「おんぶして自転車で病院に行く」
 「冬場の寒い時は、半纏を僕たちに着せておぶっていた」

 ものです。

 近年は大人も子供も生活にゆとり、言い換えれば落ち着きがなくなり、自殺や虐待の事件が増え続けています。

 「自分が腹を痛めで産んだ我が子がかわいくねえだか!」

 と憤慨する母を見ると、僕も父親になったらそう思うのか、とも思います。

 先ほど放送を終えた日本テレビの「ゴーイング」に、長野パルセイロ・ファンは釘づけになったでしょうが、サッカー選手の父と子の間柄は、やはり難しく、だからこそことが思い、ように思います。

 都並が父を敬愛していることは、スパイクの銘柄からもわかります。

 彼が履くプーマは、父の敏史氏と同じだからですし、フルバックというポジションも同様です。

 「父と子の間柄の前に、プロ選手とその先輩」

 という内容は、世襲かそれとも外部から取締役を指名するか、という問題に揺れる企業と同じですね。

 通常、世襲をすると

 「息子に甘い」

 という批判を受けます。

 でもスズキ、トヨダという日本を代表する車会社は、世襲で取締役を決めましたよね。

 都並からすれば、父の意見は誰にも言えない諫言であり、同時に重みをもつ言葉です。

 だからこそ、「わかっているよ」という発言になったのでしょうし、何より、比較され続けてきたことで、「またか」という気持ちが生じたものと、僕は判断しました。

 今、パルセイロの掲示板では、故障で悩む彼に多くのが励ましが綴られています。

 彼もまた、長野の地で飛躍してほしいと感じます。
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サッカーにおける伝統を顧みる

2016-05-15 00:58:35 | 日記
 フジテレビが放映権を取得した、バレーボールの五輪予選。

 僕は仕事を終えて夜のスポーツニュースで内容を見ただけですが、関心を抱いたのは日本代表ではなく、対戦相手、ペルーのジャージでした。

 サッカーのペルー代表は現在アンブロと契約していますが、どこのサプライヤーでもペルー伝統の

 「白の生地に赤のたすき」

 という形を変えることはありません。

 このバレーボール、女子代表も全く同じデザインで試合に挑む姿を見て、この形がペルーの誇りなのだと痛感した次第です。

 イタリアも同様で、通常アズーリというのは

 「サッカーの男子代表」

 を差します。

 でもイタリアでは、他の競技もサッカー同様ブルーのジャージを着用するので、アズーリなのですが

 「ワールドカップ優勝4度」
 「リベラ、リーバ、メアッツアなど偉大なる選手を生み出してきた歴史」

 が、アズーリの代名詞としてサッカーを連想させるわけです。

 ですからラグビーも、ブルーのジャージでタックル、トライに挑むのがイタリアの姿なのです。

 日本代表も

 「日の丸と同じように、赤と白のジャージにしたらいいよ」
 「でも一度赤のジャージにしたときに違和感は凄かった」

 というように、ジャージの色にはさまざまな意見があります。

 ただ、ヤタガラスであろうと日の丸であろうと、選手たちが胸に手を当てている姿を見れば、代表選手の気持ちが伝わることは一緒ですよね。
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