塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

承認されるために必要な動機

2019-01-04 00:39:01 | 日記
 3日、僕としては珍しく1体1で女性と食事をしました。

 と言いましても相手女性は恋人ではなく、高校時代の同級生で正月休みの為長野市に帰省していたから、一緒に一杯やろうという話になったんです。

 二人で当時を思い出しながら

 「先生には恵まれたよね」
 「そういえば、あの時は彼と彼女が交際していたよなあ」

 と、思い出話に耽ったわけですが、彼女の意見で「ああ、そうだな」と思う点もありました

 「モリヒコのいうように、集団で行動するとさ自分の動きが制限されて面倒というのはよくわかるよ」
 「でもさあ、このまま親しい人間がひとりもいないまま暮らすことも味気ないと思う」

 というもので、有難い話だと思いました。

 彼女も学校を卒業して以降、色々もがき現在に至っているのですが、彼女は僕のように承認してくれる人物の登場を待ってはいないのですね。

 「承認される人物は、自分で見つけるもの」
 「うわべだけで判断するな」

 という彼女の強い意思に触れることが出来て、その点は凄く嬉しかったですね。

 サッカーもチャンスは与えられない、自力でつかみ取るものだという格言があります。

 しかし1996年の五輪最終予選前、小倉隆史が練習秀膝に大怪我を多い、以後代表とも疎遠になったように、チャンスが目の前にあるが予期できない事故で運命が変わることもあります。

 イブラヒモビッチのようにあれだけ語学が堪能で、なおかつ各国リーグで優勝してきた精鋭でも、チャンピオンズ・リーグで優勝は出来ていません。

 間違ってはならないのは、僕のように「どうせ」と思うのではなく、やり続けることに意義がある、それで棒に振ったならば周囲も認証してくれるのではないか、と言う点でっす。

 昨日の長野は夜、冷え込みましたが印象深い時間でしたね。
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生きてていい、そう念じながら撫でてみる

2019-01-04 00:24:57 | 日記
 昨日、昨年11月以来となる信州猫日和を訪問しました。

 以前にもお話したように、信州猫日和は猫カフェでがはなく、「保護猫」カフェですので入場料が定まっていません。

 僕らが差し出すお金が運営費となり、餌代と治療費に活用されます。

 従って猫も交通事故に遭って体が不自由な猫もいれば、まだまだ幼い猫とその種類は様々です。

 僕は来場すると出来る限り全ての猫に触れるようにしています。

 3度目の来場となると贔屓の猫も生まれますが、昼寝をしていたり他のお客さんが触れているなど、思うように触れることが出来ないことはご愛敬と言えます。

 僕が全ての猫に障るのは

 「生きてていいんだよ」
 「あなたも生きていていいんだよ」

 とお互いにエールを送っている気になるからです。

 保護猫カフェの経営者は誰しもが

 「早くここを巣立って温かい人と出会って欲しい」
 「そのためには何ができるのか」

 という点を毎日考えているに違いありません。

 ですから、僕が再会を楽しみにしている猫がいなくなっていれば、それは病気で他界したか、素敵な飼い主さんに巡り合えたかのどちらかなんです。

 従ってまた再会した猫に触れる時は嬉しいのですが、より力強く「生きていていい」「俺はあえて嬉しい」という気持ちを込めて撫でます。

 サッカーはビーチサッカー、ブラインドサッカー、アンプティサッカーとその特色が豊かです。

 それはサッカーが富裕層のためではなく、労働者の憩いのために生まれたという点もあるでしょうが、身体的、地理的に関係のない競技を目指していることも大きいように思います。

 サッカーを通じて生きることを学ぶこと、きっとできますよね。
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