塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

本田圭佑、新天地はアゼルバイジャンなのか

2021-03-09 17:29:04 | 日記
 本田圭祐がアゼルバイジャンのネフチ・バクーと契約する模様です。

 僕はどうして彼がボタフォゴを退団することになったのか、ポルティモンセ側と本田側はお互い、契約出来ない事を知らないまま契約交渉を行ったのか、など当然知る由もありません。

 メキシコ、オーストラリア、ブラジル、未契約ではあるがポルトガル、そしてアゼルバイジャンと世界各国を渡り歩き、多種多様な文化とサッカーを学ぶ必要が本田にはあるのでしょう。

 それは彼がカンボジア代表の強化に乗り出していることと無関係ではないと思います。

 ただ、逆に言いますと

 一つの場所に定着できていない
 カンボジアサッカー協会は、いつどこに彼がいるのか正確に把握できるのだろうか

 という疑問が生じるはずです。

 僕がアゼルバイジャンと聞いて連想できることは

 首都はバクー
 バクーでは2019年、ヨーロッパリーグ決勝が開かれ、チェルシーが勝利
 チェルシーの指揮官、サッリがこれが初めて得たトロフィーである

 と大したことが浮かびません。

 ただ、アゼルバイジャンもウクライナやジョージア、独立したバルト3国のようにロシア、ソ連の影響を色濃く受けているはずです。

 ポーランドやチェコのように、同じく社会主義としての歴史がある国はありますが

 1・アルバニアやアゼルバイジャンのように、どこか暗く行き難い雰囲気を持つ国
 2・ハンガリーやチェコのように、ドナウ川、ブタペスト、プラハなど観光都市と避ける首都を持つ国
 3・ルーマニアのように、隣国イタリアブランドの縫製工場として知られる国

 など、一概には言えませんが、正直好んで「アゼルバイジャン」に行きたいとは思わないでしょう。

 果たして本田の冒険はどうなるのか。

 彼の活躍では、僕に勝手に抱く「どこか暗くて近寄りがたい」という印象が覆ると思いますし、むしろそちらの方が好ましいとさえ思います。
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改めて振り返るサッカーとリーボック

2021-03-09 17:12:38 | 日記
 1990年代のセリエAで3度、得点王に輝いたのがジュゼッペ・シニョーリ。

 ワールドカップ94に出場する際、彼はグリーンラインのディアドラを愛用していましたが、リーボックを履く時期があったのだと、カードを整頓していた時に知りました。

 リーボックで印象深いスパイク、ジャージと言えば
 
 デニス・ベルカンプとティエリ・アンリ、ライアン・ギグスに代表される契約選手
 2005年のボルトンワンダラーズ
 2011年のボルトンワンダラーズ
 2006年のインテルナシオナウ

 などでしょうか。

 2006年クラブ。ワールドカップのために来日した南米王者のインテルナイオナルは、リーボックのジャージと共に若きパト・アレシャンドレが輝いた瞬間が鮮烈でしたね。

 また2010年のCSKAモスクワには本田圭祐が在籍し、チャンピオンズ・リーグのセビージャ戦で放ったフリーキックが、テレビのハイライトで幾度も取り上げられました。

 同様に2006年のボルトンには中田英寿、2011年には宮市亮が在籍し、日本でもリーボックのロゴが目立つ時期でした。

 アディダスが手放すことを発表し、大っきな驚きをもって迎えられたリーボック。

 もし新しい譲渡先が見つからない場合は、リーボックに関わる取引業者、製造向上で働く方、リーボックの社員すべてがこのコロナウイルスの中で、解雇、職探しになってしまうのでしょうか。

 現状サッカー、バスケットにおいてリーボックと個別契約の事例は、クラブと選手共にないと思われますが、日本では直営のフィットネスジムとトレーナーが契約している事例があったはずです。

 新しいオーナーが見つからない場合、リーボックは独立採算が出来ずにブランドそのもの消滅になるとすれば。

 それは衝撃以上の衝撃が業界を震撼させるに違いありません。
 
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手持ちのサッカーカードを整理しました

2021-03-09 16:52:59 | 日記
 僕は過去、NHL,NBA,日本代表とJリーグ、そして欧州主要リーグのトレーディング・カードを随分と購入しました。

 NHLはすぐに処分したのですが、サッカーとNBAに関しては近所に取り合い店舗がすでになく、重複カードの交換もままならないため、集めることをしなくなった今でもファイルで保管していたのです。

 そこで、大手スポーツカード専門店に売却しようと考え、今日整理を始めました。

 実際のところは所有数の5分の1程度整理できたにすぎませんが、自分でも呆れるほど、結構な数とブランドに手を出していたことがわわかります。

 一番古いのはイタリアのスコア社の「スコア92」で、日本市場でもカード黎明期に取り扱いがありました。

 パニーニ、マーリン、トップス、フュテラ、アッパーデック、コカコーラの販促品など、ブランドも様々ですが、韓日ワールドカップ際はコーラに販促品としてカードが付いていたんですよね。

 アッパーデックで古いものは、ワールドカップ94のデザインが数枚整理出来ましたが、基本バインダーにばらけた形で保管していたので、状態は悪くないと思いますが、整理が逆に大変でした。

 僕はサッカーカードでサインカード、ジャージカードを引き当てたことはありません。

 ただバスケットボールではサインカードを1枚、ジャージカードを複数引き当てたことがあります。

 サインカードはマイク・ビビーと言う選手で、今でも覚えていますが購入場所は長野市のスポーツデポで本当に興奮したものです。

 かつて長野市にも個人経営の店舗、2000年にはファッションビルのアゲインに、専門店の「ミント」が出店しており良く遊びにでっけた事を覚えています。

 カード愛好家はパックで買う、箱で買う、シングルで買う、文字どおりトレードするのいずれかでコレクションを増やしていきます。

 ある意味カードの歴史は、フェイスブックよりもはるか先に愛好家や友人作りのコミュニティを維持する要素を秘めていたと考えると、非常に興味深い気がしますね。
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