塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

ショパンの代表曲ポロネース英雄

2021-12-28 17:39:19 | 日記
 ポーランドを言えば真っ先に挙がるのがフレデリック・ショパンです。

 彼の代表曲「ポロネース」はフランス語でポーランド風を意味しますが、この曲目は7種類ありまして僕はその6種目目「英雄」が大好きなんです。

 僕はフジコ・へミングとサンソン・フランソワ、ふたりの演奏家が弾くCDを所有していますが、ショパンの調べが持つ美しさ、華麗さ、その音色に体をゆだねることで落ち着きを得られます。

 さてポーランドの方々も他の欧州各国同様、サッカーにおける英雄が存在しますよね。

 それは年代によって

 1970年代の名手 ラトー
 1980年代の名手 ボニェク
 2000年代の名手 オリサデベ
 2010年代の名手 レヴァンドフスキ

 と印象が異なるでしょうが。

 彼らは全てセンターフォワードの選手ですが、セルティック・グラスゴーで中村俊輔と共に戦ったGKのボルツ、ブンデスリーガで長くプレイしたスモラレクも印象深いですね。

 ボニェクがユヴェントスに在籍し、「バンビーノ・デル・オロ 黄金の子ども」と讃えらた1982年ワールドカップ得点王のパオロ・ロッシとコンビを組んだ話は有名です。

 また両選手にパスを供給したのはあのミッシェル・プラティニであり、彼が1987年に引退した後
 
 ホベルト・バッジョ イタリア代表
 アンドレアス・メラー ドイツ代表
 ルイ・バロシュ ポルトガル代表

 など、多くのプラティニ以後をユヴェントスが追い求めたことからも、ロッシとボニェクに与えた影響は甚大だと考えます。

 もしレヴァンドフスキがバイエルン・ミュンヘンから、既報通りにレアル・マドリーに移籍しても、チェルシーで思うようにならなかったアンドリュー・シェフチェンコのようになった可能性はあると思います。

 ラ・リーガとブンデスリーガはオープンスペースやフィジカル・コンタクトに当然相違がありますし、彼ほどの名手でも移籍早々得点を量産できるとは思えません。

 従ってバイエルンに残留し、3冠、チャンピオンス・リーグ優勝を経験できたことは素晴らしいことですよね。

 オリサデベが2002年ワールドカップ出場の切り札となりました。

 彼はナイジェリアからの帰化選手でしたが、当然国籍を変更することは大きな決断だったに違いありません。
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改めて考えるワールドカップ2年周期

2021-12-28 17:21:05 | 日記
 著作「ユートビア」で知られるトーマス・モア。

 彼はこう語ったとそうです。

 「神よ、変えることができるものを変える力と、変えることができないものを受け入れる力を、私に与えてください」

 (参考資料 クロスメディア出版 ブルネロ・クチネリ著 人間主義的経営)

 キリアン・エムバッペは大胆にも、初めてワールドカップ2年周期開催を明確に否定した選手です。

 2年周期開催が実現するならば、5000億円の経済的恩恵が得られるようですが、これは新型コロナウイルスの余波で手詰まりになった国への補助にまわるのでしょうか。

 かつてジョアン・アベランジェが

 アフリカやアジアにもサッカーは普及させるべきだ
 ワールドカップが16か国ではなく、もっと出場国を増やす形で開催すべきだ
 2002年のワールドカップはアジア開催が望ましい

 と、ある種の権威主義を「民主主義」で覆い隠して自分の立場を強固にした恩恵は、確かに韓日ワールドカップの開催、南アフリカ共和国の単独開催、アジアとアフリカ諸国のワールドカップ出場が現実となりました。

 ただ、そこに「利権と汚職」が付随してまわったことも確かですが。

 ではインファンティノーが考えるこの2年周期も、同様に民主主義的であり同時に拝金主義なのでしょうが。

 僕個人はエムバッペ同様に4年周期は変更の余地はないと考えています。

 それは理屈ではなく、感情でもなく

 4年周期を変える理由が見当たらない
 この方法論が過去、問題になることはなかった
 コパ・アメリカのように2年周期の大陸選手権が、どこかマンネリのような雰囲気がある

 という形がかんじられるためです。

 2年周期で48か国が仮に実現すれば、以後単独開催は不可能でしょう。

 そこに選手とファンを受け入れるという合宿地と各国の思惑が実現すれば、やはり金の流れが加速することは間違いないでしょうね。
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待っておれ、待ちました、優勝しました

2021-12-28 11:27:07 | 日記
 前回お話ししたフジコ・ヘミングのベストCD「カラーズ」

 この中には「遅くなっても、待っておれ・それは必ず来る」という、聖書の一文「ハバクク第2章3節」が引用されたカードが封入されています。

 彼女は60歳を超えてから日の目を浴びた形でsから、この一文を胸に秘めてきたのですね。

 川崎フロンターレが2017年、遂にJ1で優勝したのも

 「民が待っていた、待っておれ」

 の形でした。

 外国籍ですとジュニーニョ、マギヌン、チョン・テセに代表される実力者
 日本人ですと中村憲剛、我那覇和樹などの代表選手

 が在籍し、J2時代を抜け出しJ1に定着するも、リーグもヤマザキ・ナビスコカップも2位が続きます。

 「シルバーコレクター」
 「万年2位」
 
 と揶揄され、不愉快な気持ちを抱き続けてきたことが要因の一つでしょう、やはり決勝で敗れたナビスコカップの表彰式での態度が大きく問われたこともありました。

 屈託を追い払うことさえできなかったに違いありません。

 しかし、2017年あの優勝の際、中村がむせび泣いた瞬間は川崎フロンターレのファンでなくとも

 「ああ、本当によかったね」
 「そうだよね、泣いてしまうよね」

 と皆が感じたと思いますよ。

 リバプールで遂にプレミア・シップ優勝のないまま、LAギャラクシーに旅立ったスティーブン・ジェラードは、やはり「それ」が達成できなかったことが、胸のつかえになっていると聞いたことがあります。

 ですから今では貴重となった「旗頭」としての彼が翌年の2018年、そして2020年も優勝を味わい、引退したことは意義あると思います。

 2019年の横浜Fマリノスを含むと、神奈川県のクラブが過去5年J1王者に輝いているわけです。

 下手をすればフロンターレが5連覇していてもおかしくはなかったとも感じますし、来季のJ1もやはりこの2クラブが優勝争いを引っ張るのでしょうね。
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小鳥とフランツ・リスト、そして世界王者

2021-12-28 11:14:51 | 日記
 フジコ・へミングが発表したベストCD「カラーズ」

 5枚組CDの1枚目は「情熱 奇跡の鐘」という題目の下で12曲が収録されています。

 その8曲目フランツ・リストの一曲

 「小鳥に説教する聖フランチェスコ(伝説)」

 がありますが、ハンガリー出身のリストは、フレデリック・ショパンと深い親交があり、最後は聖職者になったと聞きました。

 音色は聴いていただくしかないのですが、この小鳥という文面から僕はガリンシャを思い出します。

 1958年ワールドカップ、遠いスウエーデンの地で念願の初優勝を遂げたセレソン・ブラジレイラ。

 選手と指揮官が帰国すると、大統領自らが優勝セレモニーで迎えます。

 大統領は選手たちの優勝をねぎらうために

 「コパカパーナの別荘をプレゼントするよ」

 と語ると、選手たちは喜びを隠しきれない一方で、ガリンシャだけが嬉しそうな表情を見せないというのです、

 怪訝に感じた大統領がガリンシャに問いかけると、彼は

 「大統領閣下、僕は別荘はいりません」
 「その代わりにあなたが飼育しちえる小鳥を放してあげてください」
 「僕はあの小鳥が楽しそうに空を飛び、謳うのが見たいんです」

 このガリンシャのエピソードは、ワールド・サッカーダイジェスト別冊「ファンタジスタ50」の23ページに詳しく描かれています。

 ブラジルでは現在はどうかわかりませんが、王と讃えられるペレよりも、大衆がガリンシャを好んだとさえ言います。

 彼は子だくさんである一方で読み書きの知識に乏しく、悪徳業者からお金を騙しとられ最後は貧困の中で他界します。

 だからこそブラジルではガリンシャの死を悼み、彼の心を察する形が定着したのでしょう。

 小鳥に自分の姿を重ね合わせたガリンシャを考えて。
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