水原の華城(華虹門)
前回は、プサンの海印寺などの話でしたが、今日は、3回目のソウル訪問の時に訪ねた昌徳宮、水原城についてお話ししましょう。
ソウル訪問の時は、ツアーと言っても、二人だけで、また、ほとんどが自由行動という設定になっていました。
従って、観光地へ行きたい場合には、自分で調べていくか、オプショナルツアーに参加するということになります。
三回目は、たまたまかも知れませんが、タイトルの昌徳宮や水原城を見学するコースが設定されていました。
値段が少々高め?きっとそうなのでしょうね。
さて、それは、それとして、旅の中身が大事ですね。
まず、水原の華城ですが、ここは、名前だけは聞いたことがあり、機会があれば行ってみたいと思っていました。
ここは、冒頭の写真のような中世の韓国、というより、朝鮮王朝時代の建物が残されているようです。
水原は、ソウルから南に約30キロのところにあり、城の完成が1796年となっていますから、今から210年くらい前の建築物ということになります。
しかし、現存の建物や、城壁は、その頃のものばかりとは限らないようであります。
1975から79年にかけて復元されたようですから、ほとんどのものが最近できたもの?かもしれません。
このお城は、王朝第22代の王様が、策謀の中で非業の死を遂げた自分の父をまつるために、その墓をソウルから水原の華山に移したことがきっかけとなって建設されたお城であります。
訪問しますと、お城の周りを万里の長城のような城壁がグルリと囲んでいます。
その高さ、7㍍、距離5,7キロとなっています。もちろん、中国の万里の長城とは比較にならない規模のものですが、歴史を勉強しながら見学するという意味でも、貴重な世界遺産だと思います。
などと言っている小生ですが、どの建物が華城なのか分かりません。お城は、たぶん、存在しないのでは?
でも、世界遺産のこのお城を「じっくり」見学するのも良いし、また、城壁を歩きながら遠景の水原市街を見るなど「一見の価値あり」だと思います。
あぁ、そうそう、肝心な歴史のお勉強で忘れてはならないことがあります。
それは、その当時の都は、漢城といわれたソウルで、水原への遷都は、重臣達の反対にあって実現できなかったことです。
いつの時代でも、どのような組織であれ、トップに立つ人々には、色々と気苦労があるものですね。
でも、防衛省の事務方のトップのような「ワンマン経営」は困りますね。
さて、次に昌徳宮ですが、ここは、1405年の完成で、その後の文禄の役での焼失後、1614年に再建されたとなっています。
ここは、朝鮮王朝の離宮として建てられたもので、漢城(ソウル)には、ここの他に本宮の「景福宮」と「昌慶宮」というお城があったようです。
しかし、秀吉さんが三つとも焼いてしまったため、昌徳宮が1614年に再建され、以来、19世紀に景福宮が再建されるまで、ここが王様がお住まいの城になった、ということであります。
どんな建物があるかなどは、次回にお話ししたいと思います。
昌徳宮の正面門