昨日、中西先生の考え方を文芸春秋で読んで、先生の考え方を皆さんに紹介しようと思ったのですが、理科不足のためうまく表現できなかったものですから、途中で紹介をやめてしまいました。
先生は、帝人事件を例にとって政治に清潔を求める国民の要求こそが、結果として「検察ファッショ」を後押しし、軍部の台頭を容認して、政党政治を壊滅させてしまったと指摘しています。
それでは、政治に清潔を求めてはいけないのでしょうか?
先生は、「ここで、民主主義政治の最大の難問にたどりつく。」といっています。
それは「政党政治の維持と、政治腐敗の摘発は、ときに相反する。そのとき、清潔と民主主義のどちらを取るか。そして誰がいかにしてバランスをとり、その判断を下すのかという問題である。」そうです。
ということは、政党政治という民主主義の維持のためには、政治の腐敗には目をつぶりなさい、といっているのでしょうか?
でも、必ずしもそのように断言はしていないようです。
「政治に完全な清潔を求め、徹底的に無菌状態に近づけていくことは不可能だし、危険ですらある。しかし、安易に政治の腐敗を容認してしまえば、やはり国民の信頼を失い、政治の信頼は根底から喪われる。一体、その線引きはどこで、どのようにして行なえばよいのか。これこそ「統治者の悩み」と言わねばならない。」と言っているからです。
そして、「この問題は先進民主主義国が長年にわたって苦しめられた問題でもある。」と指摘して先進国の解決先を紹介しています。
まず、アメリカですが、「アメリカで顕著なのは、重大な政治スキャンダルが発覚したとき、これを「国家安全保障に関する問題」として位置づける、という手法を用いることだ。」といっています。
どいうことかといいますと、「これ以上腐敗を追及することは、国家の安全をも脅かすことにつながるため、党利党略を離れ、国家的な立場としてスキャンダルに蓋をする、という解決策をとることが少なくない。」そうです。
いやはや、驚きですね!「国家としてスキャンダルに蓋をする!」つまり、国家が幕引きをするといっているのです。これで、国民が納得するのでしょうか?
でも、現にそういうことが行なわれているそうです。
「ウォーターゲート事件への関与を認めたニクソン大統領は、事件の責任をとって辞任したが、後任のフォード大統領は不徹底な事件調査の後、ニクソンに対する特別恩赦を行なっている。1986年には、レーガン政権時代のイラン・コントラ事件が発覚したが、これも真相は解明されないまま終わっている。」のだそうです。
ウォーターゲート事件の真相を徹底的に解明すると「国家の安全をも脅かす」という判断があったということのようですが、その判断が正しいのかどうかは問われないということでしょうか?
アメリカ国民は民主主義の欠点を熟知していて、こういう判断を容認するアメリカ国民こそが「大人の民主主義を知っている」ということでしょうか?
日本人には、このような時の政治権力者である大統領の判断に任せる、というような「政治への信頼」ができないのかもしれませんね。
次にイギリスですが、「イギリスでは、国家的に重大な意味を持つ疑獄やスキャンダルでは、政治家を検挙はするが、裁判を長引かせてうやむやにしてしまう、という”テーブル・マナー”が使うことがある。」といってます。
いやはや、これが「テーブル・マナーだ!」という言うのですから驚きですね。有名な例としては、後に首相となるロイド・ジョージやウィンストン・チャーチルも連座したマルコーニ事件(無線通信メーカーからの賄賂)というのがあったそうです。
この裁判を長引かせるという作戦は、「イギリス独特の階級社会によるところも大きく、司法界にも政界にも、それぞれの立場を超えて、エリート的な「国家の統治意識」から同じ回路でものを考える人々がいて、彼らの下した判断は、裁判を不自然に長引かせ、情勢の変化を待つことだった。」というのですから、これも驚きの作戦ですね。
このように外国の例を引き合いにだして、先生は次のように問題提起しています。
「民主主義」と「腐敗の根絶」が二者択一となるような究極の選択があるということは、日本人がまだ一度も考えたこともないレベルの命題である。いずれにしても肝要なのは、政治が腐敗し問題が生じた際に法と正義を踏まえつつ「どう収束させるか」という大きな知恵、国家としての懐の深さであろう。しかし、それは一体、誰が担うべき役割なのか。
また、それに必要なのは、第一に、国家の側にある程度の混乱、ある程度の腐敗を民主主義の代価として容認するプラグマティズム(実用主義)の気風であろう。第二に、政治指導者や検察、司法のトップに、「国家的な見地」から判断を下すという広い視野と責任意識が求められる。第三に、問題を早期に発見し、芽のうちに摘んでおく仕組みも不可欠だ。
これらを備えてはじめて、成熟した民主主義国家といえるかもしれない。
このように論旨が展開しますと、次は「現在の日本にこうした条件は整っているいるのだろうか。」ということになります。
そこで、先生は現在の日本の検察の現状と指揮権の問題を述べています。
特に、小生などもマスコミに洗脳されているためか、法務大臣の指揮権は発動してはならないものだと理解しています。
その原因は昭和29年の造船疑獄で犬養法務大臣が佐藤栄作氏などの政治家を救うため発動したからですが、本来は、政治家たる法務大臣が検察という官を民主主義的にチェックするためのシステムだったのです。(人民の人民による人民のための検察になっているのか、ということでしょうか?)
この段落(英米流「腐敗」との付き合い方)で小生が「なるほど、そういう考え方もあるのか!」と感心したのは、次の文章です。
「検察は事件の捜査、告発に際して、政治的な配慮は一切すべきではない」というのも、実は危険な誤謬である。もちろん、第一線の検察官はあくまでも犯罪の嫌疑があれば、事案の究明に専念すべきだろう。しかし、統治の責任を負う立場であれば、検察、裁判所、あるいは警察でも、その中枢を担う人間に、純粋な法理を超えた、国家全体を見据えた判断が要求されるのは、三権分立化の成熟した民主主義の鉄則といっていい。」
そして、小沢氏秘書の政治資金規正法違反事件に言及しているのですが、これではまるで検察バッシングですね。
でも、そうではないのです。検察の判断にも問題があるが、政治家にも大きな問題があるといっています。結果として、国民の検察不信、政治不信がつのるばかりになって、国家として大変不幸なことだといっているのです。
そして、「近年の日本の政治状況を振り返ると「子供が動かす幼稚な国家」という」言葉がどうしても浮かんでくる。」といっているのです。
この原因を誰が作ったのかを「小泉劇場」の大罪として、次に進んでいますが、疲れましたので、今日はこの辺で失礼します。
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