手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

昭和の時代が懐かしい

2017-02-22 19:07:18 | 随想

 年は平成28年だ。昭和が終わってもう28年目になる。10年一昔というけれど、昭和は三昔のことになりつつある。

 昭和5年生まれの私は昭和の時代の辛さも楽しさも体に染みついている。貧しいけれど暖かい時代がありました。10人兄弟の私です、どこの家も子だくさんだから周りは友達だらけ。家族が多いから当然生活も苦しい。でもそんな中だからみんなが助け合う空気が流れていて、暖かかった。

 振り返ってみると、学制の旧制と新制のはざまを通りました。戦闘帽が正帽であったときから、学帽に替わり、旧制高等学校に位置した第三師範の本科一年では旧制高等学校生の生き様を垣間見ることができた。新制大学一年の時は憧れであった角帽も被ることができた。

 昭和28年沼田高等学校に奉職したのでしたが、初任給は6950円でした。安給料だったけれど、勤めは勤めとして楽しい生活をおくることができた。東京オリンピックの年に美唄東高校に転勤なった。転勤して驚いたのは美唄東高校が一学年10学級、30学級というマンモス高校だったことでした。更に丁度前の年に美唄の三井炭鉱が閉山し、続いて三菱炭鉱も閉山になって、瞬く間に炭鉱住宅ががら空きになっていって、安普請の炭鉱住宅から灯が消えて、みるみるさびれていくのを見ることになりました。しかし、私たちの給料は毎年のベースアップで車まで持てる生活へと変わってきたのでした。一方家庭では産児制限が始まり、普通の家庭は子供は二人までの時代になっていった。また、人口移動が激しくなり都市に集中するようになり、札幌はものすごいスピードで膨らんでいっていた。昭和53年に札幌西陵高校に転勤になったのだが,新設3年目の学校だったが一学年10クラスの30学級というマンモス高校になっていた。そして60歳定年を西陵で迎えたのだが、ここが平成元年になり、私の教員生活は昭和できりが付いたのです。

 定年退職後4年講師として勤めましたが、5年目は私から辞退させてもらいました。平成生まれの子供達は昭和生まれとかなり違ってきていました。昭和生まれの、とりわけ一けた時代の私たちには重たい子供たちなっていたのです。

 社会の様相もすっかり変わりました。昭和の時代は懐かしい思い出の時代となっています。

コメント
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