手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

私と北詩連のつながり

2019-11-04 19:20:16 | 詩吟関係
 昨日、北詩連加盟14年ということでブログを書きました。しかし、北詩連とのかかわりはその前からあったのです。初め岳風流に加盟したことを書きましたが、その当時は北詩連を知りませんでした。知ったのは平成3年手稲に教場が出来、手稲文化協会に加入しました。その時、文化協会に加盟していた詩吟の団体に北詩連嶺周会と北彩会があり、現在も世話になっている岡内嶺周先生とお亡くなりになりました長谷川北彩先生と親しくさせていただきました。嶺周先生はその当時からコンダクターをお持ちで、ただ前奏だけ弾いて指導されていました。北彩先生には教育文化会館で開催された全道大会に招待いただき、そのころまだ北詩連に加入していなかった稲穂吟友会の存在を教えていただきました。

 嶺周先生は文化協会の会計をなさっていましたが、文化協会をおやめになられ、そのあとを私が2年ほど受け持つは目にもなったのです。北彩会も間もなく文化協会を退会され、文化協会の詩吟は私の会と、私が一時籍を置いた岳風流剣風流の二団体でしばらく続くことになりました。

 嶺周会と北彩会が文化協会を離れてからはお二人とも疎遠になっていました。しかし、その間に私の所属していた象堂流から笠原先生をトップに牛崎先生、和泉先生、吉岡先生たちが北詩連に転籍されたという話を聞いて驚いていました。そのうちに吉岡先生が理事長になったという話も聞いていました。

  私も象堂流に20年世話になりましたが、それなりの事情があり 象堂流を退会することになり、大会後どうするかということでは、この先例が決断の大きな力となりました。 象堂流退会の決意をしながら、岡内嶺周先生に昔の馴染みでお伺いして仲を取り持ってもらって、北詩連にお弟子さんともども加盟させていただいたのでした。つながりは結構長かったのですが、やはり途中からの仲間入りで、何の力にもなれないまま来ました。それでも 象堂流の時代から開催していた碌峭会交歓吟詠に随分参加いただき34年間も継続できたのは光栄の至りでした。
コメント
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