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手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

俺の昭和がし遠くなる  美瑛の丘   2

2016-12-03 18:46:30 | 随想
 私の父は上川村字東雲の小学校校長でした。昭和12年に赴任して、太平洋戦争などもあり転勤がないまま15年ほど勤め、転勤になった二校目が美瑛町の二股小中学校でした。

 二股は美馬牛という駅から9キロ奥に入ったところにあり、今は美瑛の丘として観光の目玉になったりしていますが、当時は大変な僻地でした。私は当時学芸大学旭川分校の2年で、ここから夏の間は通学をしたのです。自転車をこいで美馬牛まで行くのですが、途中大曲(おおまがり)という坂があり自転車はおして上らなければなりません。帰りは楽ですが行く時は本当に大変でした。大曲から美馬牛までの間はいくつものなだらかな丘がづいていました。此の大曲を降りたところに続くが二股だったのです。

 20年ほど前に家内と義姉を連れてドライブをした時、上富良野から二股に抜けてみました。全く様変わりしているのに驚きました。上富良野方面の丘はきれいな花畑に変身していました。二股に入ると、私がいたころの様子と全く変わっていました。藪だった所もきれいになっていました。私がヤマメ釣りをした川は無くなっていました。

 に入ってみると人の気配を感じないのです。父の勤めた学校に寄りましたら今は廃校になっていて、それでも何かの記念館のようになっていました。学校の前にお店があったのもなくなっていたし、学校のそばには教員住宅もあったのですが、それもなくなっていて人の気配もありませんでした。ただ、校庭は整理されていて草畑みたいになっていないのは嬉しかった。

 このは水稲栽培が中心で、この時も水田は広がっていましたが人家は点在するだけでした。

 学生で青春真っ盛りで、の青年と一緒にいろいろな活動をしたことが思い出されます。お盆には校庭でにぎやかに盆踊りが催され、私もそんな輪の中で楽しんだのでした。楽しかった。 正月には何軒かの友達の家でカルタ取りに興じたことも懐かしく思い出される。お茶菓子なんてなくて、凍ったミカンを食べたりしたものでした。

 中の人が知り合いで、友達でとても仲良く、そんな点では今の時代よりづっと心豊かな暖かい時代だったと思います。いじめなんて言葉は全くかったのです。

 今更に、「俺の昭和は遠くなる」をしみじみ感じます。
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