手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

俺の昭和が遠くなる 1

2016-12-02 19:14:02 | 随想
  私は1930年(昭和5年)生まれです。平成も29年を迎えます。昭和はもう28年も前に終わっていることになります。最近演歌の中に昭和を懐かしむものが目立つようになっています。此の随想の題は新沼謙治さんの歌の題をそのまま使いました。

 今北海道の鉄道の半分は廃線しなければJR北海道はやって行けなくなるということです。

 私の鉄道の思い出は高校と大学の途中までの汽車通にあります。昭和20年に永山農業学校に入学して一年目は寮で暮らしましたが、2年目から汽車通をすることにしました。私の家は石北線の安足間と上川の間に位置する上川村字東雲という処でした。ただ、駅は安足間までだと2キロですが、上川は4キロになるので、隣村となる安足間からの通学でした。

 安足間を6時30分ころ発の汽車に乗り、新旭川で宗谷線に乗り換えて永山まで行くのです。夏は下駄をはいて、冬はボロ長靴を履いて、マントという外套を着用しての通学でした。

 この一番列車は通学列車みたいなもので、旭川中学(旭中)、工業(旭工)、商業(旭商)、そして私たちの永農、上級学校で旭川師範の本科生が相乗りとなります。それぞれ学校ごとに分かれて乗ります。旭中は小学6年からの進学、工業・商業・農業は実業学校で高等科2年を卒業しての進学です。自然とできている序列のようなものがありました。旭中に一目置くような意識があったように思います。女学生もいたはずなのですが、記憶に在りません。安足間からは旭川師範の方が二人通っていられ、私は時折話をさせていただいていました。そして、旭川師範への進学を望むようになっていったのでした。

 当然ですが蒸気機関車に引っ張られる汽車です。終戦直後で石炭が少なく、薪を焚いての運行もありました。寒い日には蒸気が上がらないといって、汽車が遅れることもありました。又冬わざと乗り越し、東雲で雪の中に飛び降りたりしたこともありました。

 高等科2年まで学んだ東雲小学校は廃校になっています。そして、石北線もそのうちに廃線となるのでしょうか。ますます昭和が遠くなります。

 
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