手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

新元号まで後一週間

2019-03-25 19:54:38 | 随想
  平成になったときはまだ現役だった。何かとても優しい感じを受けました。たた少し迫力に欠けるような感じを受けたのでしたが、次第になじんで気持ちよく受け入れていました。平成3年に退職して、退職してからがかえって多忙になりました。詩吟の教室が急速に大きくなり、更に手稲文化協会の事務局長を引き受け、倒壊寸前だった手稲文化協会を立て直し、新しい事業も発足させ今の文化協会にしてきた。また 詩吟では、岩見沢に本部のあった 象堂流を退会して、独立し北海道詩吟連盟に加盟させていただいてそれなりの活動をしてきた。途中札幌西支部の総務部長を仰せつかり6年ほど仕事をさせてもらいました。このころは、詩吟の教室も5つなり、それに文化協会事務局長、西支部総務部長と息つく暇もないくらい忙しいこともあった。文化協会で一番力になってくれた俵先生曰「村川さんは死ぬ暇もないね」というありさまだった。振り返ってみる「平成」は私の一番充実した時代だったといえそうです。

 昭和5年生まれの私は昭和を生きました。貧しい時代、敗戦後のみじめな生活、しかし敗戦から立ち上がり、敗戦で何もかも失ったような状況から、いち早く抜け出し、先進国の仲間に入った行ったのでした。どん底の生活から、どんどん抜け出していった姿は、私は素晴らしかったと思つている。時々、「俺の昭和が遠くなる」と新沼謙治さんの歌をラオケで歌ったりしている。

 今度は、「俺の平成遠くなる」といえるまで、生きれるといいのだが。

 元号に絡んで思うことがある。戦時中天皇は「朕」と称していました。その意味がよくわからないまま、要するに天皇は自分を「朕」と呼ぶのだと思っていた。實はこの「朕」なる言葉は,秦の始皇帝が、当時民間でも自分を「朕」と称していたのを、皇帝だけの呼称に決めたのです。その中国の歴史を取り入れて天皇を「朕」と呼ばせたのでした。日本の文化の底流に中国の哲学、文学が色濃く流れていると思います。今までの元号の大多数は中国の文献から選ばれて来たといいます。今度はどんな元号になるのか楽しみです。
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