先日、村橋久成について思い出の端くれをかきましたが、たまたまご覧になられた何人かの方がつづを希望されましたので、少しおしゃべりしてみようかと思います。
村橋は札幌ビール工場を完成してこれからという時に突然辞職し行方不明になり行路病者として見つかったことを書きました。ここをもう少し詳しく言いますと、辞表を出し行方不明になり、10年後に神戸で行脚僧の姿で倒れているのが発見され、神戸新聞に行路病者村橋久成という広告がて、それを昔の仲間が見つけ葬儀を行い送ったのだそうです。のちに残響の作者田中先生は村橋のお墓を探したところ八方手を尽くしたが分からず、最後に当てもなく東京の青山霊園に電話をしたら「正七位村橋久成墓」の存在を確認でき、さらに実のお孫さんが健在であることが分かりお尋ねしたところ、葬儀の香典料人名簿が残されておりそこに名前を連ねていたのは元開拓使長官の黒田清隆を筆頭に明治新政府の要人となっていた方たちがずらり名前を連ねていました。
村橋久成の胸像が知事公館の西門から入って左側にたられていています。この胸像を鹿児島から移転したのですがそれにまつわる話が、とても感動的な野で次におしゃべりしてみます。
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