手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

人に誇れるようなものはないけれど

2019-11-06 19:59:43 | 身辺雑記
  先生生活38年、校長はもちろん教頭にもなれなかった。詩吟34年、一度も大会で賞状をもらったこともない。でも、詩吟の34年は自分でもよくやったと思う。教室をひところは週5ケ所教えていた。此の間病気で教室を休んだ記憶は一度もない。お弟子さんはしょっちゅう休んでくれるけれど私は休まなかった。又、70歳過ぎにPCを使うようになって直ぐブログを書き始め89歳の今までほとんど何日か間の空くことはあっても、やめることなく、ある時期は3本のブログを書いたりした。しばらく前からFACEBOOKにも顔を出している。

 リーダーシップのようなものもないわけではないのです。手稲文化協会の事務局長として、50年の歴史を持ちながらつぶれかけていたのを立て直して現在の形にした。又、会長は固くお断りしたが町内会の副会長も6年ほど勤めた。北詩連に加盟して間もなく西支部の総務部長を5年ほど続け、年齢制限でやめた。

 詩吟では、碌峭会交歓吟詠会を34年継続して開催してきた。出来そうでなかなかできないことです。こんな生活のご褒美が昨年の札幌市からの社会教育功労者表彰だったのかもしれませんね。
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北詩連 全道大会  室蘭・稚内の思い出

2019-11-05 19:19:47 | 詩吟関係
  北詩連に加入させていただいた年は全道大会が倶知安でした。まだ加入したばかりで何もわからず、この全道大会には参加できなかった。それでも家内と二人で当日車で倶知安まで行ってみました。会場に入ったら、すかさず藤村希鶯先生が「さあさ・・どうぞどうぞ」とプログラムを下さり会場へ案内してくださいました。

 翌年が室蘭大会でした。この時は24名くらいの会員とマイクロバスを借り切って出場させていただきました。私の会に支部で20分ほどの時間を下さいましたので、 構成吟「源義経」を作り、当時まだ伴奏のテープがありませんでしたので、文化協会の筝曲岩本先生にお願いしてお琴での伴奏曲を作っていただき発表させていただいたのを記憶しています。日帰りの予定で終了後懇親会に出ないで帰ったのですが、たまたま稲穂吟友会が大型バスをチャーターして参加していまして、清水先生が帰りバスに同乗させてあげるから懇親会に出ましょうと誘ってくださり、お弟子さんたちに帰ってもらい私だけが懇親会に出席して、稲穂吟友会のバスで帰ったのでした。

 翌年が稚内大会で、これが地方大会の最後になったのですが、私の会では大型バスをチャーターして一泊二日で参加させていただきました。前日に出掛け稚内観光をして、翌日の大会に参加したのでした。記憶が少し定かでなくなっていますが、行った日の夕食は各自で取る形でした。教場毎に食事に出掛けて思い思いの食事をしたのですが、平和教場の方たちはウニ丼を食べてきたという話を聞き残念がったのを覚えています。

 それ以来、地方大会が無くなり札幌開催になったのですが、懐かしい思い出になっています。
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私と北詩連のつながり

2019-11-04 19:20:16 | 詩吟関係
 昨日、北詩連加盟14年ということでブログを書きました。しかし、北詩連とのかかわりはその前からあったのです。初め岳風流に加盟したことを書きましたが、その当時は北詩連を知りませんでした。知ったのは平成3年手稲に教場が出来、手稲文化協会に加入しました。その時、文化協会に加盟していた詩吟の団体に北詩連嶺周会と北彩会があり、現在も世話になっている岡内嶺周先生とお亡くなりになりました長谷川北彩先生と親しくさせていただきました。嶺周先生はその当時からコンダクターをお持ちで、ただ前奏だけ弾いて指導されていました。北彩先生には教育文化会館で開催された全道大会に招待いただき、そのころまだ北詩連に加入していなかった稲穂吟友会の存在を教えていただきました。

 嶺周先生は文化協会の会計をなさっていましたが、文化協会をおやめになられ、そのあとを私が2年ほど受け持つは目にもなったのです。北彩会も間もなく文化協会を退会され、文化協会の詩吟は私の会と、私が一時籍を置いた岳風流剣風流の二団体でしばらく続くことになりました。

 嶺周会と北彩会が文化協会を離れてからはお二人とも疎遠になっていました。しかし、その間に私の所属していた象堂流から笠原先生をトップに牛崎先生、和泉先生、吉岡先生たちが北詩連に転籍されたという話を聞いて驚いていました。そのうちに吉岡先生が理事長になったという話も聞いていました。

  私も象堂流に20年世話になりましたが、それなりの事情があり 象堂流を退会することになり、大会後どうするかということでは、この先例が決断の大きな力となりました。 象堂流退会の決意をしながら、岡内嶺周先生に昔の馴染みでお伺いして仲を取り持ってもらって、北詩連にお弟子さんともども加盟させていただいたのでした。つながりは結構長かったのですが、やはり途中からの仲間入りで、何の力にもなれないまま来ました。それでも 象堂流の時代から開催していた碌峭会交歓吟詠に随分参加いただき34年間も継続できたのは光栄の至りでした。
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北詩連加入から14年

2019-11-03 20:17:54 | 詩吟関係
 14年前に象堂流を退会して北詩連に加盟させていただいた。 象堂流で指導者の資格をいただき、教室を立ち上げ20年活動していたのです。退会した時私のお弟子さんは38名いました。 象堂流で宗家に次ぐ会員数を数えていたのです。

 14年北詩連で世話になりながらいろいろなことを学んできました。私なりの活動も昨年札幌市の社会教育功労者表彰を受賞したことで締めくくられるかもしれません。

 数年前までは週5回の教室を抱え、文化協会の事務局長から、北詩連西支部の総務部長まで引き受け、村川さんは死ぬ暇もないねといわれたものだった。今は二か所の教室だけになり、体を持て余す状況だけど、かえって疲れるように思う。要するに暇なしでいるのが私に合っているのでしょう。というよりやはり歳のせいですか。卒寿です。今、北詩連の現役の指導者では私が一番年上かもしれない。今、碌峭会の会員は11名です。この人数は結構多いことになるのです。福祉センターの講座には20名ほどの会員がいます。この二つの指導だけになっているのですが、教室のある日はとても楽しい。

 詩吟の人口減、なんとかならないでしょうか。随分努力したつもりですが、もう限界か来たようです。
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吟歴45年 思い出は多い

2019-11-02 20:40:30 | 詩吟関係
 美唄東高校で同僚と詩吟の会を作ったのが44歳の時だった。

 先生が佐久間先生の伯父さんで豊泉流の師範になったばかりの東先生でした。先生の東と美唄東の東をひっかけて東吟会と名付けました。私が会長になったのは一番年上だったからだと思います。

 週一度、職員室で夜の6時からの稽古でした。何の伴奏もなく、また、詩吟の構造もわからないまま、先生の吟を聞いて復唱するように練習をするのです。一回聞いても全くわからないまま唯声を張る。すると転句あたりで声が出なくなる。家に帰って稽古をしようにも、何せ節が分かっていないのですから、稽古にならないのです。

 それでも、稽古の状況を私が印刷して、次の日皆さんに配布するというようなことをしました。いきなり初段の資格審査に向かっての稽古でした。そして、六ケ月後、初段の審査を受けました。みんな緊張していました。段という言葉がひどく重たくのしかかっていました。全員合格でした。直ぐに合格祝いをやりました。審査はひどい失敗をしない限り全員合格することが分かり、納得はしました。仲間の中で一番下手だったのが私だったと思っています。

 次の稽古に入る時に、豊泉流から分派して恵山流日本吟道会が設立され、東吟会もそちらに吸収されました。恵山流は5級から始まることになってましたが、私たちは豊泉流で初段を取っていたので、初段に格付けされて進みました。

 恵山流の最初の 競吟大会の合吟に「富士山」で出場し、優勝してしまいました。随分稽古をしました。皆様本当に熱心で気合も入っていました。その時のトロフイが今も私の部屋に飾られています。恵山流は数年後、 象堂流という宗家吟になりました。
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白内症 術後検診  2時間半かかりました

2019-11-01 19:21:53 | 身辺雑記
 今日は白内症の手術後2回目の検診でした。早く見てもらうためには8時半に受付待ちに出かけなければなりません。途中ならどうなるかわからないのですが、13時までには診察が終わるはずだからと思って11時に行ってみました。待合室はびっしり。

 覚悟しました。二時間待ちだと。その通りになりました。

 今日、眼鏡の処方をしてもらえるかと思ったけれど駄目でした。裸眼では車の運転がむつかしく、眼鏡屋に相談して、先生の処方が出たときそれに併せて修正していただくことにして新しい眼鏡を作って使っています。そのことを話したら、眼鏡を調べ、次回に処方しましょうといわれた。次回、なんと一月後です。今使っている眼鏡、自分でもそう思っている通り、少し強すぎるとおっしゃいました。でも使ったらだめだとは言われませんでした。

 経過は順調で問題はないのだそうです。この後、目薬今まで3種類だったのを2種類にするよう指示されました。新たに目薬が処方されました。薬屋が混むのです。30分待たされました。11時前に出かけて帰宅したら13時半になっていました。疲れました。
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