瞑想を始めると、たいていはまず想念が浮かばないように腹の動きに集中しようとする自分がいる。それでも想念を追っていることは多い。一瞬一瞬の想念に気づいては腹に戻ろうと一生懸命になっている。すると、想念に抗って腹に集中しようとしている「気持ち」や「思い」へのサティは、どこかに飛んでしまっている。
しかし、想念に抗って腹に集中しようとする「気持ち」は、背後に厳然とある。最近は、一歩退いて根元にある「気持ち」や「意図」にサティを入れることが多い。腹の動きに戻ろうと、どこかで「一生懸命」になっている。そういう自分に気づく。そうすると、瞑想をしていることが、ふっと楽になったように感じる。
想念に抗うことが重要なのではない。想念に気づくことが重要なのだ。さらに想念に抗おうとする「思い」に気づくことが重要なのだ。心に起るあらゆることに気づくのがヴィパッサナー瞑想だ。
そこでガンガジの言葉。
「人はよく、自分の日常生活の惨めさから逃れるために精神的な生活を始めます。‥‥そうやって始まるものではありますが、でもそれは最終地点ではありません。最終地点とはつまり抵抗を止めることですが、そこには、何からも逃げることはできないし、その必要もない、という気づきがあります。つまり、意識に浮かぶあらゆるものを完全に迎え入れ、そのどれ一つ無視しない、ということです。それは受身の容認とか諦めとは異なり、意識(主体)と、意識の中に表れるもの(対象)が深く交わる、ということです。意識(主体)と意識に表れるもの(対象)が交わるとき、完全な意識が表れます。」p191
「意識に浮かぶあらゆるものを完全に迎え入れ、そのどれ一つ無視しない」ということは、もちろんヴィパッサナー瞑想のエッセンスと言ってよいだろう。
主体と対象が深く交わるとはどういうことか。主体(意識)による歪曲、編集、解釈なしに対象が受け入れられるということだ。
ここでガンガジがいう「抵抗」の意味は実に深い。
しかし、想念に抗って腹に集中しようとする「気持ち」は、背後に厳然とある。最近は、一歩退いて根元にある「気持ち」や「意図」にサティを入れることが多い。腹の動きに戻ろうと、どこかで「一生懸命」になっている。そういう自分に気づく。そうすると、瞑想をしていることが、ふっと楽になったように感じる。
想念に抗うことが重要なのではない。想念に気づくことが重要なのだ。さらに想念に抗おうとする「思い」に気づくことが重要なのだ。心に起るあらゆることに気づくのがヴィパッサナー瞑想だ。
そこでガンガジの言葉。
「人はよく、自分の日常生活の惨めさから逃れるために精神的な生活を始めます。‥‥そうやって始まるものではありますが、でもそれは最終地点ではありません。最終地点とはつまり抵抗を止めることですが、そこには、何からも逃げることはできないし、その必要もない、という気づきがあります。つまり、意識に浮かぶあらゆるものを完全に迎え入れ、そのどれ一つ無視しない、ということです。それは受身の容認とか諦めとは異なり、意識(主体)と、意識の中に表れるもの(対象)が深く交わる、ということです。意識(主体)と意識に表れるもの(対象)が交わるとき、完全な意識が表れます。」p191
「意識に浮かぶあらゆるものを完全に迎え入れ、そのどれ一つ無視しない」ということは、もちろんヴィパッサナー瞑想のエッセンスと言ってよいだろう。
主体と対象が深く交わるとはどういうことか。主体(意識)による歪曲、編集、解釈なしに対象が受け入れられるということだ。
ここでガンガジがいう「抵抗」の意味は実に深い。