先日、父の車椅子を押して家に戻る道々、サティをしながらも何回か繰り返される想念があった。少し前に行なったスピーチが自分ながらうまくできた。そのスピーチの反応や人からの評価を思い出しては、喜びを味わっていたのだ。
「自己満足」と何回かラベリングしていた。しかし、そうしているうちに、「自己満足」の背後に「自己不満足」があるのを感じた。「自己」に満たされないものがあるから、何かで成功して人に評価されることが喜びになるのだ、と感じた。「満たされないもの」というより「不安定」と言うほうが的確かもしれなかった。
「自己」は、強烈な満たされなさを抱えているから、満たされることを求めている。一種の補償行為である。「自己」そのものが、その成立からして無根拠で、それゆれ根本に不安をもっている。だからこそ、成功や他者の評価という形で、自らの強化をはかり、不安を隠そうとする。
この感覚はすぐに忘れる。防衛しているからだろう。しかし、正直に今ここでの思考や感情にサティしていると、「自我」の根底にある不安や脆さや「満たされなさ」に直面していくのだろう。
大切なことは、その根底的な不安から逃げずに直視することなのだと思う。言い換えれば、今ここで心に生起している一切をごまかさずに気づいていくことだ。
日常、何かに「自己満足」することは少なくない。そこからどこまでサティを深めていくことができるか、が問われる。
「自己満足」と何回かラベリングしていた。しかし、そうしているうちに、「自己満足」の背後に「自己不満足」があるのを感じた。「自己」に満たされないものがあるから、何かで成功して人に評価されることが喜びになるのだ、と感じた。「満たされないもの」というより「不安定」と言うほうが的確かもしれなかった。
「自己」は、強烈な満たされなさを抱えているから、満たされることを求めている。一種の補償行為である。「自己」そのものが、その成立からして無根拠で、それゆれ根本に不安をもっている。だからこそ、成功や他者の評価という形で、自らの強化をはかり、不安を隠そうとする。
この感覚はすぐに忘れる。防衛しているからだろう。しかし、正直に今ここでの思考や感情にサティしていると、「自我」の根底にある不安や脆さや「満たされなさ」に直面していくのだろう。
大切なことは、その根底的な不安から逃げずに直視することなのだと思う。言い換えれば、今ここで心に生起している一切をごまかさずに気づいていくことだ。
日常、何かに「自己満足」することは少なくない。そこからどこまでサティを深めていくことができるか、が問われる。