最近ずっとサティが低調で、とくにここに書くべき新たな発見もなかった。サティを真剣にしようとする意欲も低下している。サティを真剣に行っているときは何かしら「やりがい」を感じている。自分の進歩や気づきに得意になっている「自我」がいる。サティへの意欲の中では、「自我」が「やりがい」や「満足」を感じるから、という部分が意外と大きいと感じた。
職場への行き帰りの歩行中(あわせて40分くらい)は、サティをしている。しかし思考も多い。そういう場合は最近、切り替えが早い。背後の気分にサティをしていく。「思考を楽しんでいる」「(思考を押さえつけて)サティしたくない」「自分に強要するような)サティはいやだ」等々、その時々の自分の気持ちに気づいて行く。すると抵抗なく感覚対象へのサティも始まる。
『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』ウィリアム・ハート著(春秋社、1999年)を読み直した。といっても以前に読んだときに線を引いたところを拾い読みしただけだが。それでも、あらためてなるほどと思うことが多かった。それなりに瞑想経験が増しているから以前とは自ずと感じ方が変化しているのだろう。
今回とくに印象に残ったのは、「からだの感覚の観察」の重要性についてである。
「‥‥、からだの感覚は心とつよく結びついており、呼吸と同様、現在の心の状態をそのまま反映する。思考、意見、空想、感情、記憶、願望、不安、といった対象物が心に接触すると、感覚が生じる。思考、感情、心の動き、すべての心の対象物がからだの感覚を引き起こすのである。したがって、からだの感覚を観察することによって心の観察ができることになる。‥‥自己を本質を知り、それにに正しく対処するためには、ふだんはほとんど感じとれないような微細な感覚にまで気づく必要がある。」p127
怒って、「怒り」とラベリングしてもなかなか怒りがおさまらないとき、怒っている自分の体の感覚の変化を観察し始めると、不思議と怒りが収まることが多い。自分自身でも何度か経験した。
ともあれ、気分転換のためにも、日常生活の中で「からだの感覚」の観察の機会を少し増やしてみようと思った。
職場への行き帰りの歩行中(あわせて40分くらい)は、サティをしている。しかし思考も多い。そういう場合は最近、切り替えが早い。背後の気分にサティをしていく。「思考を楽しんでいる」「(思考を押さえつけて)サティしたくない」「自分に強要するような)サティはいやだ」等々、その時々の自分の気持ちに気づいて行く。すると抵抗なく感覚対象へのサティも始まる。
『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』ウィリアム・ハート著(春秋社、1999年)を読み直した。といっても以前に読んだときに線を引いたところを拾い読みしただけだが。それでも、あらためてなるほどと思うことが多かった。それなりに瞑想経験が増しているから以前とは自ずと感じ方が変化しているのだろう。
今回とくに印象に残ったのは、「からだの感覚の観察」の重要性についてである。
「‥‥、からだの感覚は心とつよく結びついており、呼吸と同様、現在の心の状態をそのまま反映する。思考、意見、空想、感情、記憶、願望、不安、といった対象物が心に接触すると、感覚が生じる。思考、感情、心の動き、すべての心の対象物がからだの感覚を引き起こすのである。したがって、からだの感覚を観察することによって心の観察ができることになる。‥‥自己を本質を知り、それにに正しく対処するためには、ふだんはほとんど感じとれないような微細な感覚にまで気づく必要がある。」p127
怒って、「怒り」とラベリングしてもなかなか怒りがおさまらないとき、怒っている自分の体の感覚の変化を観察し始めると、不思議と怒りが収まることが多い。自分自身でも何度か経験した。
ともあれ、気分転換のためにも、日常生活の中で「からだの感覚」の観察の機会を少し増やしてみようと思った。