瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

一切を求めずに行為する

2007年01月10日 | 瞑想日記
去年の8月よりmixiの日記でも、ここと同じ内容のものをコピーしてアップしている。昨日の日記に対してmixiでは、二人の方がコメントを下さっていた。

そのコメントの一つに、昨日の日記の中にあった「常に変わらず存在しているもの」とは何でしょうか?という質問があった。

ガンガジの本のページをめくって適切な文章を探すのではなく、私なりに受け取ったものを一言で表現すれば、「私という思考に限定されない意識」ということになるだろう。

経験の場としての意識は、限りなく狭く「私」として限定されて体験されるのが普通だが、「私」という限定から限りなく解き放たれる可能性も秘めている。「私」という限定から解き放たれた意識とは何なのか?

「私」という限定から解き放たれるためには、「私」という思考がなす一切の目論見、企図、願い、希望からさえ解き放たれるということなのだ。それが、「私」にまつわる一切を失うということのひとつの意味だ。

夢に見た「白鶴」のイメージは、思い出す度に心に響く。「白鶴」は、この現実の社会の中を修行者として生きることの象徴である。修行として行為するとは、「私」の利益や評価を超えてただひたすらに行為するということである。それはまた、「私」の一切を失った上で、一切を求めずに行為するという意味である。そのような生き方が、心に響いてくる。そのように行為したいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする