起床後、お茶を飲んでから30分ほど座禅。と言っても最近右足に痛みがあるので、尻の下にクッションを置き正座してやっている。
想念が多い。最初はそれに抵抗している。そのうち抵抗にサティし、抵抗せずに心随観に切り替える。ひとつひとつの想念にラベリングしていく。その想念が浮かんできた背後の動機にもラベリングしていく。他愛のない想念に見えてもだいたいは、何かしら動機が見つかる。「やはり、こんなことが気にかかっていたのか」と。
動機にいくつかの流れがあるのを感じる。想念の元になる執着やこだわりや欲求の流れである。心の傾向性といってもよい。自分の心の中をそういう線がいくつも走っているようなイメージがあった。そのどれかが時に応じて強くなり、それに押し出されるようにして、それに応じた想念が浮かんでくるような感じだった。
たとえば、上のようなイメージが浮かぶと、それをどのように文章化しようかと思考している自分がいる。瞑想日記は自分の心の確認の意味もあるが、同時にそれによって評価されたい「自我」が根づよくある。自己表現によって評価されたいというひとつの傾向性である。
このように個々の想念の背後にあるそれぞれの傾向性にまでさかのぼってラベリングしていく。ひとつひとつの想念について丁寧にそれをやっていく。
注意したいのは、こうした心随観をやっていても一回ラベリングしたら、そのつど腹の動きへのサティに戻ることだ。
やがて心随観もわずらわしくなってきた。最後は身随観に戻って腹の動きに集中した。はじめたころよりは想念がずっと少なくなっていた。
11時過ぎ、いつものように父を教会に迎えに行き、車椅子を押して家に帰る。車椅子を押す20分ほどもよい瞑想の時間だ。想念・思考には確実に気づきが入っていくことを確認する。
想念が多い。最初はそれに抵抗している。そのうち抵抗にサティし、抵抗せずに心随観に切り替える。ひとつひとつの想念にラベリングしていく。その想念が浮かんできた背後の動機にもラベリングしていく。他愛のない想念に見えてもだいたいは、何かしら動機が見つかる。「やはり、こんなことが気にかかっていたのか」と。
動機にいくつかの流れがあるのを感じる。想念の元になる執着やこだわりや欲求の流れである。心の傾向性といってもよい。自分の心の中をそういう線がいくつも走っているようなイメージがあった。そのどれかが時に応じて強くなり、それに押し出されるようにして、それに応じた想念が浮かんでくるような感じだった。
たとえば、上のようなイメージが浮かぶと、それをどのように文章化しようかと思考している自分がいる。瞑想日記は自分の心の確認の意味もあるが、同時にそれによって評価されたい「自我」が根づよくある。自己表現によって評価されたいというひとつの傾向性である。
このように個々の想念の背後にあるそれぞれの傾向性にまでさかのぼってラベリングしていく。ひとつひとつの想念について丁寧にそれをやっていく。
注意したいのは、こうした心随観をやっていても一回ラベリングしたら、そのつど腹の動きへのサティに戻ることだ。
やがて心随観もわずらわしくなってきた。最後は身随観に戻って腹の動きに集中した。はじめたころよりは想念がずっと少なくなっていた。
11時過ぎ、いつものように父を教会に迎えに行き、車椅子を押して家に帰る。車椅子を押す20分ほどもよい瞑想の時間だ。想念・思考には確実に気づきが入っていくことを確認する。