瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

心の傾向性

2007年01月21日 | 瞑想日記
起床後、お茶を飲んでから30分ほど座禅。と言っても最近右足に痛みがあるので、尻の下にクッションを置き正座してやっている。

想念が多い。最初はそれに抵抗している。そのうち抵抗にサティし、抵抗せずに心随観に切り替える。ひとつひとつの想念にラベリングしていく。その想念が浮かんできた背後の動機にもラベリングしていく。他愛のない想念に見えてもだいたいは、何かしら動機が見つかる。「やはり、こんなことが気にかかっていたのか」と。

動機にいくつかの流れがあるのを感じる。想念の元になる執着やこだわりや欲求の流れである。心の傾向性といってもよい。自分の心の中をそういう線がいくつも走っているようなイメージがあった。そのどれかが時に応じて強くなり、それに押し出されるようにして、それに応じた想念が浮かんでくるような感じだった。

たとえば、上のようなイメージが浮かぶと、それをどのように文章化しようかと思考している自分がいる。瞑想日記は自分の心の確認の意味もあるが、同時にそれによって評価されたい「自我」が根づよくある。自己表現によって評価されたいというひとつの傾向性である。

このように個々の想念の背後にあるそれぞれの傾向性にまでさかのぼってラベリングしていく。ひとつひとつの想念について丁寧にそれをやっていく。

注意したいのは、こうした心随観をやっていても一回ラベリングしたら、そのつど腹の動きへのサティに戻ることだ。

やがて心随観もわずらわしくなってきた。最後は身随観に戻って腹の動きに集中した。はじめたころよりは想念がずっと少なくなっていた。

11時過ぎ、いつものように父を教会に迎えに行き、車椅子を押して家に帰る。車椅子を押す20分ほどもよい瞑想の時間だ。想念・思考には確実に気づきが入っていくことを確認する。
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「むさぼる思考」

2007年01月18日 | 瞑想日記
やはり、日常生活の中で想念・思考に気づきが入る度合いは、最近かなり増えている。とくに「むさぼる思考」には確実に気づきが入る。また、日常生活の中での自分の想念・思考の傾向が、明確に見えてきた感じだ。

「むさぼる思考」と書いたが、日常の思考を私自身の自己理解のために便宜的に分類したものの一つだ。「むさぼる思考」は、何かしら潜在意識に根ざす執着や傾向性によって何度も同じパターンで繰り返す思考をいう。これが日常の想念・思考の中ではいちばん曲者だろう。

「必要な思考」は、生活や仕事のための計画や段取り、実際に行動しているときの状況判断と行為の選択のための思考など、最低限必要な思考だ。

「些細な思考」は、上の二つのどちらでもないが、ちょっとした外的刺激からの連想などで生じる他愛もない想念だ。その背後に根づよいコンプレックスや執着が隠されているわけではない。

おそらくどんな人にも特定のテーマでの「むさぼる思考」があるだろう。また特定のテーマではなく、様々なテーマにまたがりながら同じパターンで繰り返す「むさぼる思考」もあるだろう。

私の場合は、微細なところで他者の評価や眼を気にして、「あの時あの人は私の行為をどのように受け止めたか」などと確認しようとするパターンがまだまだ多い。また、人との優劣を確認する思考も多い。

もちろんこういう傾向は以前から分かってはいたが、多くの想念・思考に気づきが入るようになると、それがより明確になった。背後の動機にもサティが入ることが多いので、「ああ、やはり」とますます明確になったのだ。

しかし「むさぼる思考」に確実にサティが入るので、以前のように無自覚のままむさぼり続けることはなくなった。
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サティによる浄化

2007年01月17日 | 瞑想日記
無意識の層から浮かんでは消える想念のエネルギーは、実は消えるのではない。汚物が水面に浮上してはまた沈んでいくように、何度も何度も循環しているのだ。だからこそ同じ思考パターンを繰り返すことが多いのだろう。

そうした無数の想念のひとつひとつに気づく、サティするということは、それらに付着するエネルギーを少しずつ解放していく作業なのかも知れない。それはちょうど、精神分析において無意識の自覚化が、抑圧されたエネルギーの解放につながるのに似ている。だた、一回一回のサティによって解放されるエネルギーはごくわずかだろう。しかし、サティは一日に何百回、何千回と行うことができる。その積み重ねがサティによる浄化ということだ。

日常、無意識から突き動かされるようにして無数の想念を繰り返していくために、脳はかなりのエネルギーを消耗しているだろ。では、サティによって無駄な想念を減らすとどうなるか。脳の無駄なエネルギー消費が減る。脳の思考が整理され、本当に必要な思考にエネルギーを集中させることが可能になる。

仕事中でも、いわゆる雑念が起こったら起こりっぱなしにせずに、すかさずサティする。どんな微細な思考であっても、思考をピンでつまみ挙げるのだ。それが浄化作用となる。雑念が減り、集中力が増す。

今日は、勢い込んでサティをしようとは思っていなかったが、ちょっとした思考にもかなりサティが入っていった。努力しなくともある程度のサティが入っている感じ。もはや無意識から突き挙げてくる想念のエネルギーは、コントロール不可能とは感じなくなった。

★1月14日(日)には、旧ダイアリー(さるさる日記)の方では、「自覚的に生きる」というタイトルでアップしていましだが、こちらのブログにはアップするのをうっかり忘れていました。遅ればせながらアップしておきます。
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気づきと浄化

2007年01月16日 | 瞑想日記
最近、サティの調子が今ひとつであった。サティが途切れ途切れだったのが、今日は流れるようにサティが続くことがしばしばあった。考えるより先にサティが入るという感じが少し戻って来た。そうなると思考に気づき、思考を相対化する度合いも増える。思考している自分を見ている感じが多くなる。

職場へ歩いているとき、「~~している私」とサティしていることが多い。「見ている私」「聞いている私」「~~と思考している私」「感じている私」。こういうラベリングが適切かどうか分からない。少なくとも、見たり、聞いたり、そう思ったり、感じたりしている「自我」という働きを意識した時には、そういうラベリングになることが多いようだ。

思考に気づき、思考する自我に徹底的に気づいていること。

先ほどちょっと疲れて、炬燵でぼっとしていた。想念が浮かんでは消えた。気づいた瞬間の想念は覚えているが、その前、さらにその前の微細な想念が何だったかすら思い出せなかった。それほど無自覚だということだ。数秒後に記憶にも残らないような想念の連続。それらはやはり、無意識のエネルギーに動かされて無意識の層から浮かんでくるのだということを改めて感じた。

だからこそ想念の流れに自覚的であることが大切なのだ。想念を自覚的に捉え返すことで、無意識の層に淀んでいるエネルギーが少しずつ少しずつ浄化されていうような気がする。
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自覚的に生きる

2007年01月14日 | 瞑想日記
できるかぎり自覚的に生きたい。私にとって「自覚的に」とは、限りある命としてこの世に投げ出されているという現実に自覚的であるということである。それはまた、日々の生活や人間関係への思いやわずらいに埋没しないということである。平凡な日常の中の個々の行為であると同時に、限りある命にとっての一瞬一瞬の行為だということに自覚的であるということである。

限りある命を自覚しつつ行為するとは、一瞬一瞬を修行として行為するということだ。しかしそこに「自我」の狙いや成果を求める心があれば、結果としてそれは「自我」を肥大させるだけであり、本当の意味での修行とは言えない。修行としての成果すら期待せずにひたすら行為する。成果や利益や評価を求めずにひたすら行為する。

さとりという「成果」のために修行するのではない。限りある命であることを自覚しつつ、いかなる成果をも期待せず、ただなすべきことを行う。そこに真実があるからそうするのである。そんな生き方に一歩でも近づきたい。

ガンガジの言葉。
「徹底的に死ぬ覚悟ができなければ、徹底的に生きることはできません。そして、死の恐怖と徹底的に向き合う覚悟がない限り、徹底的に死ぬことはできません。あなたが本当に死の恐怖と向き合えるなら、あなたは心安らかです。決して死なないものの存在に気づくからです。」p321

「精神的な探求とは実は死の探求であり、喪失の探求です。多くの人が、開悟を求めて精神的な探求を始めます。が、真の精神的覚醒とは何もかも失うことを通して得られるものなのです。」p317
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