GHQ焚書図書開封 第79回
-支那軍閥の徴税、徴兵、略奪-
1911年から1940年に亘って支那の実情を体験した長野朗の「支那三十年」昭和6年刊行。
袁世凱亡き後の北方軍閥の内乱で塗炭の苦しみを味わった農民。天命を失う(民心を失う)状況がつくられてきた。
朝廷もできた頃は税も軽いが、後期になると。財政も苦しくなり、綱紀も乱れ、税金の名のもとに農民からあらゆる富を搾取する軍閥、土匪、官吏や勝手に紙幣を発行する軍閥が増えてきた。蒋介石の中央銀行、張作霖の東三省官銀行などがそれである。、
支那の諺に、「土匪は櫛の如く、兵はヘラの如く」とある。
過酷な軍閥による搾取の中で、民衆には、ただ生きていければ良い、何も信じない、徹底的に狡くなるしかないという気質が身についた。
民衆にとって最も安全な場所は、租界であり、そこに逃げ込むことが最良の選択であった。
軍閥の金儲けの妙手は,、銅貨製造と栽培、製造工程で何度も税金をとれる阿片であった。
支那の兵隊は、農民の男子を拉致して集められた(拉夫・らふ)。月給の安い志願兵の役得は、掠奪と強かん。
退軍のときの支那軍隊の近隣山村婦女子に対する凌辱は常態化していたことなどから、支那で起こった残虐事件(南京事件など)は、支那人自ら犯した可能性が拭いきれない。
日本軍は支那の便衣兵は処刑したが、ハーグ陸戦条約違反の行為はなかったというのが、ヨーロッパ人の証言、残存する各種記録による学界の通説である。にも拘わらず、南京事件を取り上げない教科書が検定に通らなかったり、今日もなお悪質な一部の日本の学者たちが支那に媚び諂い、支那の言う通りに日本軍による大量虐殺があったと吹聴・喧伝しているのである。
秦⇒チン⇒チャイナ⇒支那となったのであり、中国という言葉は戦前なかったのである。戦後、日本政府、官僚が支那からの抗議に負け、中国として一般化したのである。
参考文献:「支那三十年」長野朗
-支那軍閥の徴税、徴兵、略奪-
1911年から1940年に亘って支那の実情を体験した長野朗の「支那三十年」昭和6年刊行。
袁世凱亡き後の北方軍閥の内乱で塗炭の苦しみを味わった農民。天命を失う(民心を失う)状況がつくられてきた。
朝廷もできた頃は税も軽いが、後期になると。財政も苦しくなり、綱紀も乱れ、税金の名のもとに農民からあらゆる富を搾取する軍閥、土匪、官吏や勝手に紙幣を発行する軍閥が増えてきた。蒋介石の中央銀行、張作霖の東三省官銀行などがそれである。、
支那の諺に、「土匪は櫛の如く、兵はヘラの如く」とある。
過酷な軍閥による搾取の中で、民衆には、ただ生きていければ良い、何も信じない、徹底的に狡くなるしかないという気質が身についた。
民衆にとって最も安全な場所は、租界であり、そこに逃げ込むことが最良の選択であった。
軍閥の金儲けの妙手は,、銅貨製造と栽培、製造工程で何度も税金をとれる阿片であった。
支那の兵隊は、農民の男子を拉致して集められた(拉夫・らふ)。月給の安い志願兵の役得は、掠奪と強かん。
退軍のときの支那軍隊の近隣山村婦女子に対する凌辱は常態化していたことなどから、支那で起こった残虐事件(南京事件など)は、支那人自ら犯した可能性が拭いきれない。
日本軍は支那の便衣兵は処刑したが、ハーグ陸戦条約違反の行為はなかったというのが、ヨーロッパ人の証言、残存する各種記録による学界の通説である。にも拘わらず、南京事件を取り上げない教科書が検定に通らなかったり、今日もなお悪質な一部の日本の学者たちが支那に媚び諂い、支那の言う通りに日本軍による大量虐殺があったと吹聴・喧伝しているのである。
秦⇒チン⇒チャイナ⇒支那となったのであり、中国という言葉は戦前なかったのである。戦後、日本政府、官僚が支那からの抗議に負け、中国として一般化したのである。
参考文献:「支那三十年」長野朗
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