GHQ焚書図書開封第166回
-強制栽培制度を正確に批判した関嘉彦先生-
明治維新前に、すでに太平洋の島々は欧米諸国に侵略されていた。
1824年の英蘭ロンドン条約締結までは、東インド地域は英蘭の権益争いの場であった。
条約締結後も、イギリスは、蘭領東インドのアチエ民族をそそのかし、オランダの覇権を奪うためアチエ戦争を裏で操るなどオランダの勢力低下に力を注いだ。
1805年のトラファルガーの海戦から第一次世界大戦までの100年間は、イギリスが統治する平和の時代(パクス・ブリタニカ)だった。
主食の米づくりを封じて、輸出用としてお茶、コーヒー、藍、砂糖を強制栽培させてことが、インドネシアの人たち(土民、原住民)を苦しめた。
植民地での出来事は王室の関係者と現地総督以外には知らされず、具眼の士が暴露小説を書いて本国国民に植民地の実情を知らせるぐらいだった。
強制栽培制度の生みの親は、ファン・デン・ボッシュであったが、現地の王同士の争いを画策し、無力化すると同時に、原住民や外国要人、記者と王様との接見を固く禁じた。徹底して空位化、傀儡化したのである。
J.S.Furnivalは「Netherlands India 1939」の中で、強制栽培制度は現地人の福祉向上に寄与したと説明しているが、これに対し、関嘉彦先生は総輸出額、綿製品の輸入額の増加額比較だけで貢献度を論ずるのでなく、物価上昇率も考慮した場合、現地人に悪影響(主食欠乏による飢饉、飢餓)を及ぼしたことは明白であると論破している。
このことが、後にインドネシアの植民地解放戦争(大東亜戦争)へとつながっていったのである。
参考文献:「GHQ焚書図書開封第2巻」西尾幹二、「蘭領印度農業政策史」関嘉彦、「白人の南洋侵略史」柴田賢一、「蘭印侵略史」デ・クラーク、、「大東亜戦争の開戦目的は植民地解放だった-帝国政府声明の発掘-」安濃 豊
関連動画:「GHQ焚書図書開封第12,13回」
2018/05/23 に公開
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