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-和辻哲郎「日本の臣道」(一)-(GHQ焚書図書開封第172回)

2022-07-09 22:03:21 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第172回

-和辻哲郎「日本の臣道」(一)-

『大君の御為には喜んで死なう』というのは軍人精神を体得する初歩の段階である、やがてその体得が深まってくると『敵を倒すまでは決して死んではならぬ』という烈々たる戦闘意識を信念的に持つようになる、これが海軍の伝統的精神である。

 人種偏見をもったルーズベルトは、日本人は死に、痛みや苦痛を感じない特殊な構造の脳をもっていると言っていた。

 立花隆は、デパート、結婚式場、子供のいる小学校で起こすイスラムの自爆テロと相手の軍、軍艦などを目標にした特攻隊を同じように考える愚劣な見解を主張している。

 今、日本人にある嫌韓、嫌中の感情は、名誉を重んずる日本人の気風と相反するものだからである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

次に儒教と結びついた場合を問題といたします。それは、初めから儒教に教えられて生じた傾向ではなく、武士たち自身の体験の中から漸次形をなしてまいりまして、後に儒教と結びついたものであります。前にも申しましたように武士の生活が、主従関係だけでは解決が付かず、主従の道よりも深いものを求めてまいりました時には、赤裸々な実力の競争そのものが、一つの道を自覚させたのであります。それは、主従関係とは独立に身命を惜しまない潔さ、そのものを尊重することであります。実力の競争に於いて、勝ちさえすれば手段を選ばぬというのではない。卑しいこと穢いことは死んでもやらない。自分の潔さ、清さ、貴さを護るためには身命をも平然と捨てる。ここに、自分の身命よりも尊いものが、はっきりと見いだされているのであります。命を助かるためにはどんなことでもするという態度とは正反対のものであります。ここにも、死生を超えた立場が実現されました。戦国末期の武士の気風には、この立場から出た気節、廉恥がにじみ出ていたのであります。そうして、其の気風が江戸時代初期にはっきりと儒教に結びついたのでありました。武士と儒教との連絡は何も江戸時代に至って初めてついたというわけではりません。信玄家法などには、濃厚に儒教を取り入れております。しかし、当時には、まだ儒教とは引き離しがたいほど、強くは結びついていなかったのであります。それは、仏教とも、また基督教とでも自由に結びつき得たのであります。特に当時の切支丹との関係は、当時の日本の武士の気風がヨーロッパ人の眼にどう映ったかを示していて、興味深いものであります。

耶蘇会の傑物フランシスコ・ジャンビエルが日本へ参りましたのはコロンブスの第三回航海(南米発見)やバスコ・ダ・ガマのインド上陸から50年程度でありますが、また英国がスペインの無敵艦隊を破りました時より40年程度前であります。従って、スペインがアメリカ大陸を抑え、ヨーロッパの覇権を握っていた時代であります。その時代でもシャビエルは有数な傑物の一人でありましたが、耶蘇会としてはポルトガルの勢力と結びついております。その彼がポルトガルの船で日本から帰って間もなく日本人を賛美した手紙に書いております。日本人は今まで発見せられたうちの最良の民族である。異教徒の中には、日本人より優れたるものは見出せまいと思う。この国民は人づきあいが良く善良であるが、特に驚くべきはその名誉を重んずる国民で、如何なるものよりも名誉を大切にしている。貧乏は、ここでは恥でない。富より名誉のほうが重いのである。従って、貧乏な武士でも富裕な庶民より貴い。これは、基督教諸国にもない美風である。庶民は武士を敬愛し、武士は領主に仕えることを喜んでいる。これは、そうしないと罰せられるからでなく、そうしないことが恥ずべきことだからである。またこの国民の間には盗賊が少ない。盗みを憎むことが甚だしいからである。基督教であると否とを問わず、これほど盗みを憎むところを見たことがない。また、この国民は道理を好み、道理に適うことを聞けばすぐに承認する。いけないのはむしろ坊主の類である。こういう風に申して居るのであります。この種の意見は、他の場合にも色々な形で延べております。

シャビエルにとりましては、日本民族が優秀であるということを、基督教に適しているということと同義なのであります。ところで、その優秀性として把握せられたところは、取りも直さず身命より貴いものをはっきりと摑んでいる点であります。右の手紙より16年後、ルイス・フロイトが京都で書きました手紙には、シャビエルが日本へ来たのは聖霊のうながしによるものである。なぜならば、シャビエルの言っているとおり、日本国民は文化、風俗、及び習慣に於いては多くの点でイスパニア人よりも遥に優れているからである。と申しておりました。フロイスは日本史を書き残しました。かなりの傑物でありますが、それが当時の世界の最強国民であるスペイン人よりも日本人のほうが優れているとはっきりと言い切っているのであります。そうして、日本民族の優秀性がシャビエルの日本伝道の理由であったと解しているのであります。これらの伝道師の見当は当たって居りました。ヨーロッパは、もう1000年も殉教者が途絶して居りましたが、日本では、その後、続々と殉教者が輩出致しました。これは、当時のヨーロッパ人が実際驚嘆したところでありますが、日本にとっては危険この上もなかったのです。スペイン人がメキシコやペルー(インカ帝国)に於いて何をしたかを知っている者にとっては全く冷汗を流さざるを得ません、幸いにして我々の祖先は、インカ帝国などの運命などを詳しくは知らないながらも、勘で以て危険を防ぎました。その際、この防護方法が消極的でなく積極的であったらと、我々は考えますが、しかし当時の時勢としては止むおえなかったかも知れません。

そういう武士の気風に対して、国家を危うくしない健全な理論的根拠を与えたのが儒教なのであります。

儒教は、本来君子道徳を説いております。君子は、本来は文字通りの意義。即ち、民衆を統率する立場のものを意味しているものでありますが、その君子の任務は道を実現する所にあると儒教は説くのであります。

その君子の道が武士の道として理解されました。武士は士であり、士大夫なのであります。山鹿素行の『道』はかかる考えの代表的なものと云ってよかろうと思います。かくして武士の任務は道を実現することに認められました。身命よりも尊いものは道として把握されたのであります。この立場では武士の古風な主従関係は儒教風の君臣関係として活かされております。しかし、それは主として封建的な君臣関係であって未だ十分に尊皇の道とはなっていません。たとひその点に目覚める人がありましても、初めには、ただ儒教風の大義名分の思想を媒介として、従って、尊皇論でなく『尊王論』として自覚されたのであります。以上二つが武士の道として自覚されたのであります。いづれも深い意義を持っているものでありますが、しかし中世以来の武士の生活が主として内乱の上に立っていたという制限は脱することが出来ません。それは国内のみを見て国外を見ない立場であります。従って日本の国家についての自覚が不十分でありました。死生観を超えて絶対境に没入すると申しましても、また身命よりも道を重んずると申しましても、それを国家に於いて実現するというところには到らなかったのであります。

ここに武士の道が更に尊皇の道として鍛え直さなくてはならないところがあるのであります。尊皇の道は国初以来綿々として絶えず、日本人の生活の深い根底となっているものであります。武士たちが自分の直接の主人にのみ気をとられていた時代でも、その心の奥底には尊皇の精神が存していたのであります。それは稀には日本の国家を国外からの脅かすような力が現れてきた来た際、はっきりと露出しております。不幸にして武士たちは、国内の争いのために近視眼となり、自分の奥底にあるものを十分自覚し得なかったのであります。しかし、前に申し述べました二つの道も実を申せば最初から尊皇の道に含まれていた契機にほかならぬのであります。この点を簡単に指摘して置きたいと存じます。前述の如く死生を超えた立場は一方では絶対の境地に突入することによって得られました。ところでこの絶対の境地を我々の遠い祖先は尊皇の道に於いては悪したのであります。この把握の方法は、儒教、基督教、回教などの所謂世界宗教とは明白に異なってい居ります。これらの宗教では絶対者はそれぞれその宗教独特の形に限定されているのであります。仏とか、エホバとか、アラーとかがそれであります。かく限定されている以上、他の宗教の神に対立せざるを得ませぬ、対立すればそれは早退者であって絶対者ではありませぬ。従って己の宗教の神を絶他者として主張するためには他の宗教の神を排斥しなくてはならないのであります。エホバの神の如きはその排斥の特徴とする神がありまして、その故に妬みの神と呼ばれておりますが、この精神は基督教の歴史全体に濃厚に現れているのであります。先程も一寸触れました16世紀を例えに取りますと、この世紀の初めにはアメリカ領大陸やインドや南洋への交通が盛んになり、ヨーロッパの近代が華々しく始まっているわけであります。しかし、同時にそのヨーロッパに於いて基督教の封殺という如きが累累と行われているのであります。

 参考文献:「日本の臣道 アメリカの国民性」和辻哲郎

2018/8/15 19:00公開



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