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-オランダのインドネシア侵略史①-(GHQ焚書図書開封 第12回)

2017-02-13 13:42:18 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第12回
 香辛料の産地であるモルッカ諸島をめぐるスペイン・ポルトガルの争い。大スンダ列島は同一宗教、同一民族、政治形態の類似性、華僑の移民など共通点があるのに、支配者によってインドネシア(蘭領印度支那)とマレーシア(英領印度支那)の2国に分断された。
1824年のロンドン条約は現地人権利無視の、支配国間の権利の住み分けを決めた条約だった。2国(オランダ、イギリス)の支配は、日本による植民地解放戦争(大東亜戦争)まで続いた。
 欧米の言う「国際化とは」全体の利益になれば敵対国と手打ちをすること。その際、現地人には一切の権利を与えず、搾取のみを行うというものであった。
 欧州の内戦が沈静化し、開かれたベルリン会議以降、欧米本国への富の還元のため、戦いの矛先はアジア分割、アフリカ分割へと進むことになった。アジアに道徳は不要という考えで、現地人虐殺が行われた。蘭領印度支那ではオランダ人総督ファン・デン・ボッシュによる強制栽培(砂糖、藍、コーヒー)が優先され、現地人の食料の米が作れなくなった。そのため、貧困と餓死が定常化する。
 現地島民はジャワ戦争(欧州人排斥戦争)で敗れたため、戦争忌避状態になり、平和(命乞い)を求め、過酷な搾取にも耐えるしかなかった。平和宣言=暴圧に屈服する状態の維持。
 1848年のフランス2月革命でオランダ本国も他の欧州諸国同様に自由思想(自由と人民の幸福)の影響を受けたが、植民地現地人には適用されなかった。茶、胡椒、藍などの強制栽培の禁止は1861年、コーヒーの強制栽培の禁止は1915年まで待たなければならなかったのである。「自由」「平等」「友愛」は欧州人のためのものであり、植民地現地人のためのものではなかった。

キーワード:蘭領印度支那、東印度、爪哇(ジャワ)、英蘭ロンドン条約、ジャワ戦争、普仏戦争、普墺戦争、
参考文献:『蘭印・佛印史』大江滿雄、「蘭印侵略史」デ・クラーク、『GHQ焚書図書開封2 第3章 137~189P/790P』



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