GHQ焚書図書開封 第61回
-アメリカの野望は国民にどう説明されていたか-
昭和7年4月20日、新光社から発売された論文集「日米戦う可きか」に書かれた米国の極東対策。
アメリカと支那との貿易は、1784年、ウェストバージニア産の「朝鮮ニンジン」をエンブレス・オブ・チャイナに積んで広東に輸出したことから始まった。当時、支那は自給自足できる国であり、貿易は必要としなかったが、アメリカ側は独立戦争で疲弊した国力を回復するために貿易を必要としたのである。
1853年、ペリーが日本に来航した時には、支那貿易の半分はアメリカの手に握られていた。貿易品目はほとんど「朝鮮ニンジン」であった。また、当時、鯨の油は燈油として使われており、捕鯨船の果たした役割は大きかった。
ペリーは、パナマ~サンフランシスコ~ハワイ~小笠原~琉球~上海への海路途中の島々をアメリカ領とすることを考えていた。アメリカは1830年アメリカ人が10数人居住していたことで小笠原諸島の領土権を主張し、一方、イギリスは1827年にビーチェ大佐が占領したと主張した。最終的に、1675年に小笠原貞頼が発見したという記録から幕府が日本領土とすることで決着した。
このことが、支那貿易維持のための1854年のペリーによる開港談判へとつながっていった。
19世紀後半、イギリス、アメリカの共通の敵はスペインだった。
1869年、スエズ運河の開通により、ロンドン~喜望峰~広東航路よりも距離が短くなりイギリスが支那貿易上、アメリカより有利になった。
アメリカは次の手として、パナマ運河~ハワイ~ミッドウェー~ウエーク~グアム~フィリッピン~支那への海路を確保するため、米西戦争をし、スペイン領キューバ、ニカラグア、パナマ、グアム、フィリッピンを次々と確保した。
アメリカは米西戦争に勝利後、実質的に兄弟国イギリスの覇権を取り上げた。
米英の支援を受けた日露戦争(1904-1905)は、米英VSロシアの代理戦争であった。
米英が日本を支援したのは、日清戦争(1894-1895)後の三国干渉時の露仏同盟に脅威をもったためである。すなわちラテンVSアングロ・サクソンの対立構造であった。アメリカにとって、1914年のパナマ運河開通は、大西洋の米艦隊を太平洋に移すことを容易に可能とし、日本の南太平洋上の脅威に対する軍事上の意味があった。
もっとも、日本には領土的野心の意図はなく他国からの防衛上の拠点を確保する程度ととらえていた。
独立時、人口300万、13州に過ぎなかったアメリカは、19世紀初頭フランスからミシシッピ―以西の流域を買い取り、その後、メキシコと戦争をしてテキサス、アリゾナ、ニューメキシコ、カルフォルニアを割譲して、我が領土とし、ロシアからはアラスカを買い取り広大な領土を手に入れていった。
南太平洋ではサモアを巡って英米独が争いを行っていた、1889年サモアは独立宣言をし、英米独の共同保護国となったが、内乱を経て、英が手を引き、1900年、米独間でサモアの分割が行われた。
キューバでは、1868年スペインに反旗を翻し紛争が10年に渡った、1895年には再度反乱が発生するに至った。1897年帝国主義者マッキンリーが米大統領に就任すると、1898年の米軍艦メイン号爆発事件をきっかけに米西戦争に突入した。アメリカはほとんど無傷でキューバ及びフィリピンマニラを陥落させ、スペインの追い出しに成功した。
ドイツは弱くなったスペインからカロリン、パラオ、マリアナ、マーシャル群島を買収した。これらの島々は第一次世界大戦後、アメリカの横槍により日本の領土とはならず、委任統治領となった。
大西洋と太平洋を結ぶ運河については、当初、アメリカはニカラグアの湖を利用することを考えていたが、最終的にパナマの湖を利用するフランスの会社を買収して、ルーズベルト時代の1914年パナマ運河を開通させた。その過程で、コロンビア共和国に属していたパナマを独立させるなどアメリカによる様々な工作が行われた。
支那大陸は欧州列強が分割・割譲をしていたので、これまで領土拡大、膨張、侵略をしてきたアメリカは1899年、ジョン・ヘイ国務卿による、支那における①領土保全、②門戸開放、③機会均等を謳った門戸開放宣言は、領土広大、資源豊富、西欧に比べ人口希薄のアメリカにとって、支那に対する平和的政策のそぶりをみせながら、商業の拡大、投資拡大を図れ、支那での領土拡大を図る列強諸国(ドイツ、ロシアなど)の権益を抑え込むには効果的なものであった。
そして、対支戦略はこれまでの領土拡大路線から市場拡大路線(マーケット開拓)へと変わっていった。
参考文献:「日米戰う可きか -世界知識増刊-」新光社
-アメリカの野望は国民にどう説明されていたか-
昭和7年4月20日、新光社から発売された論文集「日米戦う可きか」に書かれた米国の極東対策。
アメリカと支那との貿易は、1784年、ウェストバージニア産の「朝鮮ニンジン」をエンブレス・オブ・チャイナに積んで広東に輸出したことから始まった。当時、支那は自給自足できる国であり、貿易は必要としなかったが、アメリカ側は独立戦争で疲弊した国力を回復するために貿易を必要としたのである。
1853年、ペリーが日本に来航した時には、支那貿易の半分はアメリカの手に握られていた。貿易品目はほとんど「朝鮮ニンジン」であった。また、当時、鯨の油は燈油として使われており、捕鯨船の果たした役割は大きかった。
ペリーは、パナマ~サンフランシスコ~ハワイ~小笠原~琉球~上海への海路途中の島々をアメリカ領とすることを考えていた。アメリカは1830年アメリカ人が10数人居住していたことで小笠原諸島の領土権を主張し、一方、イギリスは1827年にビーチェ大佐が占領したと主張した。最終的に、1675年に小笠原貞頼が発見したという記録から幕府が日本領土とすることで決着した。
このことが、支那貿易維持のための1854年のペリーによる開港談判へとつながっていった。
19世紀後半、イギリス、アメリカの共通の敵はスペインだった。
1869年、スエズ運河の開通により、ロンドン~喜望峰~広東航路よりも距離が短くなりイギリスが支那貿易上、アメリカより有利になった。
アメリカは次の手として、パナマ運河~ハワイ~ミッドウェー~ウエーク~グアム~フィリッピン~支那への海路を確保するため、米西戦争をし、スペイン領キューバ、ニカラグア、パナマ、グアム、フィリッピンを次々と確保した。
アメリカは米西戦争に勝利後、実質的に兄弟国イギリスの覇権を取り上げた。
米英の支援を受けた日露戦争(1904-1905)は、米英VSロシアの代理戦争であった。
米英が日本を支援したのは、日清戦争(1894-1895)後の三国干渉時の露仏同盟に脅威をもったためである。すなわちラテンVSアングロ・サクソンの対立構造であった。アメリカにとって、1914年のパナマ運河開通は、大西洋の米艦隊を太平洋に移すことを容易に可能とし、日本の南太平洋上の脅威に対する軍事上の意味があった。
もっとも、日本には領土的野心の意図はなく他国からの防衛上の拠点を確保する程度ととらえていた。
独立時、人口300万、13州に過ぎなかったアメリカは、19世紀初頭フランスからミシシッピ―以西の流域を買い取り、その後、メキシコと戦争をしてテキサス、アリゾナ、ニューメキシコ、カルフォルニアを割譲して、我が領土とし、ロシアからはアラスカを買い取り広大な領土を手に入れていった。
南太平洋ではサモアを巡って英米独が争いを行っていた、1889年サモアは独立宣言をし、英米独の共同保護国となったが、内乱を経て、英が手を引き、1900年、米独間でサモアの分割が行われた。
キューバでは、1868年スペインに反旗を翻し紛争が10年に渡った、1895年には再度反乱が発生するに至った。1897年帝国主義者マッキンリーが米大統領に就任すると、1898年の米軍艦メイン号爆発事件をきっかけに米西戦争に突入した。アメリカはほとんど無傷でキューバ及びフィリピンマニラを陥落させ、スペインの追い出しに成功した。
ドイツは弱くなったスペインからカロリン、パラオ、マリアナ、マーシャル群島を買収した。これらの島々は第一次世界大戦後、アメリカの横槍により日本の領土とはならず、委任統治領となった。
大西洋と太平洋を結ぶ運河については、当初、アメリカはニカラグアの湖を利用することを考えていたが、最終的にパナマの湖を利用するフランスの会社を買収して、ルーズベルト時代の1914年パナマ運河を開通させた。その過程で、コロンビア共和国に属していたパナマを独立させるなどアメリカによる様々な工作が行われた。
支那大陸は欧州列強が分割・割譲をしていたので、これまで領土拡大、膨張、侵略をしてきたアメリカは1899年、ジョン・ヘイ国務卿による、支那における①領土保全、②門戸開放、③機会均等を謳った門戸開放宣言は、領土広大、資源豊富、西欧に比べ人口希薄のアメリカにとって、支那に対する平和的政策のそぶりをみせながら、商業の拡大、投資拡大を図れ、支那での領土拡大を図る列強諸国(ドイツ、ロシアなど)の権益を抑え込むには効果的なものであった。
そして、対支戦略はこれまでの領土拡大路線から市場拡大路線(マーケット開拓)へと変わっていった。
参考文献:「日米戰う可きか -世界知識増刊-」新光社
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