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-支那事変 漢民族が仕掛けてきた民族戦争-(GHQ焚書図書開封 第84回)

2017-08-15 22:49:44 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第84回
-支那事変 漢民族が仕掛けてきた民族戦争-
支那人のしたたかさとしぶとさをつぶさに現場で観察していた長野朗。
支那の反日、排日運動は長期的、計画的で3段階に分かれていた。
第1段階は大正8年(1919年)~昭和6年(1931年)にかけての対日ボイコットで、日貨排斥(商品ボイコット)と反日プロパガンダ。支那の存在なくして日本は生きていけないという日本国内世論を利用したもので、この間に支那人に反日意識を行き渡らせた。現代でも経団連、財界の中に、「支那のマーケットがおかしくなると、日本もおかしくなる」という支那依存発言をする人が存在する。
第2段階は昭和6年(1931年)満州事変~昭和10年(1935年)の対日一面抵抗、一面支持で、当面は軍事力ではかなわないので、軍事態勢が整うまでの時間稼ぎに、手で抵抗運動をしながら、もう一方の手で共産軍討伐を口実に英米の支援を受けつつ、軍事力強化を図るという二面反日運動を続けた。
第3段階は昭和10年(1935年)~昭和12年(1937年)支那事変の抗日で、戦う準備が整ったことから、本格的に国共合作(1937~45年)で日本に戦争を仕掛けた。
日本に対する支那の民族感情は、山東省問題で欧米の圧力に屈服した日本に対して激しく向けられた。なぜ、日本に対して激しかったかと言えば、欧米はともかく、日本が欧米と同じ圧力をかけるのは許さない、しかも支那の東の端にある「東夷」の日本は野蛮な国家との侮蔑意識があったためである。
日本外交の遣り方が日本を侵略国家なりと思惟せしめたというのは、近年における日本外交は口に、日支親善と支那の領土保全を叫び、内政不干渉主義を高調しながら、裏のほうでは一党一派を助けて内政干渉をやり、あるいは陰に各地で利権に手を出したりするため、支那人は日本人を甚だ陰険なる国民のごとく誤解し、表面の親善政策をもって、裏面の侵略を進めんとする欺瞞手段なりとの感を抱くに至った。
そして、その侵略を「蚕食」と称し、日本民族に恐れをもつようになった。日本に民族的反感と嫉妬心を抱いた支那。
戦後、鄧小平が来日した時の言葉に「貧しい隣国からやってきてご迷惑をおかけします」というのがある。
昭和10年頃までは、支那は好戦的であったが、日本政府、出先軍人、大本営も戦争をしたくなかった。その当時戦争を煽っていたのはマスコミの論調とそれに乗せられた民衆の感情であった。
支那には、抗日救国の空気があふれ、日本とは戦うという気持ちで民衆は高ぶっていた。
内蒙古内乱(綏遠問題)は日本がバックにあると捏造し、排日運動を展開した蒋介石国民党。三民主義と打倒帝国主義をスローガンに小学生から排日教育を徹底して行う体制を作り上げた。
内田良平の「支那観」。
①平気でウソをつく②平然と恩人を裏切る③歴史事実を故意に改変する④約束を守らない⑤身内・仲間は大事にするが「外部」は騙す⑥敵を分断し、陰謀を常に仕掛ける⑦自分本位に思考し、自己利益のみを追求する⑧社会構成が「聖人主義」であり、平等思想を認めない⑨その地位についたものは、地位を利用して私腹を肥やす。
続いて西安事件勃発、第2次国共合作成立、挙国一致的に反日感情が盛り上がった。
日本と対峙する前方は正規軍、後方は共産軍が指揮する民衆の遊撃隊が作られ、日本が占領した地域で、政治的、経済的思想工作を展開するという民衆の戦争参加体制が出来上がった。つまり、支那民族と日本民族の民族戦が始まったのである。
民族戦のベースにあるものは、アメリカの場合は資本侵略、ロシアの場合は領土侵略、支那の場合は民族侵略であった。
支那の発展方式は、
①排他的、独占的、民族主義で孫文の思想
②利己的であり、全ての利益を漢民族に独占せんとす
③搾取的であり、満蒙人、朝鮮人に対する商業的搾取
④廃類気分の持ち込みを行った、阿片、賭博、秘密結社などである。
支那事変当時の状況は、今日の日中韓対立状況と酷似している。
大陸国支那と海洋国日本では相異なる特質を持っている。
日本が発展するには、日本独自の文化がなくてはならない。
参考文献:「民族戦」長野朗 「GHQ焚書焚書図書開封5-ハワイ、満州、支那の排日-」西尾幹二

2015/04/08 18:00に公開



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