GHQ焚書図書開封 第7回
第一次世界大戦後のベルサイユ講和会議で日本政府が人種差別撤廃法案を提案したが、これをアメリカ政府(ウィルソン大統領)とオーストラリア政府が拒絶・廃案にした。
1894年に日英通商条約が結ばれた後も、イギリス植民地オーストラリアは条約附則規定を盾に日本人の入国、旅行、居住の権利、居住民の生命・財産の保全の保障に難色を示した。
イギリス移民者は、タスマニア諸島において旧石器時代のような生活をおくっていたタスマニア人(1788年に数千人いたといわれている)を虐殺し続け、入植後80年たった1860年に最後の1人を死亡させ絶滅させてしまった。また、イギリス移民者はオーストラリア本土に100万人いた原住民を1942年には2万人までに虐殺や毒殺(ヒ素)などにより減らした。
オーストラリアにおける日本人排斥運動もアメリカにおける日本人排斥運動もいずれも白人純血主義、白豪主義のなせる業である。
オーストラリアは、原住民を差別、虐殺し、次に安価な労働力として支那人移民を受け入れ差別し、支那人が増えると支那人を排斥した。次に日本人移民を受入れ、日清戦争で日本が勝利すると、日本人に脅威をもって排斥に転じたオーストラリアは、日露戦争後、日本人に脅威をもって排斥に転じたアメリカと似たところがある。、
これらのことを全て知り尽くした日本人は、原爆、東京大空襲にあっても最後まで抵抗した。戦後、アングロ・サクソンは、大東亜戦争において日本人が正しいことをしたという根拠と記録を抹殺する意図をもってイギリス、アメリカの悪業を書いた本の焚書を行った。
参考文献:「豪州連邦」宮田峯一、「豪州史」泉信介、「豪州侵略史」班目文雄、「動く豪州」 「豪州の現勢」 『GHQ焚書図書開封1 381~435P/701P』西尾幹二
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