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-「鉄砲伝来」(1543)から現代を考える-(GHQ焚書図書開封162回)

2022-06-05 17:48:27 | 近現代史

GHQ焚書図書開封162回-

-「鉄砲伝来」(1543年)から現代を考える- 以後予算(いごよさん)かかる鉄砲伝来

日本とオランダとの交易の道を開いたウィリアム・アダムス(三浦按針、慶長5年(1600年)臼杵に漂着、元和6年(1620年)家光時代に55歳で逝去)。

 慶長14年(1609年)、オランダ国王の書簡により、スペイン、ポルトガルが日本から退くことになった。

プロテスタントのオランダは、カトリックのスペイン、ポルトガルと違い政経分離の重商主義政策を強調し、日本との交易を望んだためである。

更に、ブルトロメ・ラス・カサスの「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を利用したスペインの先住民に対する残虐性についての幕府への洗脳工作も功を奏した。

 鹿児島に鉄砲伝来後、信長の関心は武器と比叡山焼き討ちに見られるように宗教に対しての政治の優位性を示すことであった。

 17世紀は、造船技術及び文明のレベルにおいてもオランダがイギリスを陵駕しており、時を同じくして起こったインドネシアでのアンボイナ事件もあったことから、イギリスはインドとシンガポール統治に重点を移したため、イギリス及びオランダとの貿易は、オランダ一国に絞られていった。

 秀吉時代は、石田三成、小西行長、加藤清正もキリスト教信者であった。

アンチキリスト教政策は、寛永11年から始まり、13年に海禁政策とした定着した。鎖国と言えないのはオランダ、シャム、朝鮮とは交流があったためである。

 鎖国が可能だったのは、当時、日本の金銀銅の産出量が多く、慶安元年から60年間に金239万7000両、銀37万4000貫が貿易により支那、東南アジアへ流出したと言われているほど余裕があったのである。

 鉄砲伝来が我国にもたらした影響は

①加羅、天竺の他に、別の文明があることを知った。

②支那文明が座標軸であったが、西欧という座標軸があることを知った。

③普遍性のある科学技術を自家薬籠中の物とした。

つまり、日本近代化の幕開けが起こった。

 天才信長は、弾の装填に時間がかかる火縄銃の欠点をいち早く見抜き、三段撃ちという戦法をあみ出し、1575年長篠の戦いで武田勝頼を打ち破った。

ヨーロッパでこの戦法を採り入れたのは1631年のブライテンフェルトの戦いからで、実に、半世紀も遅れていたのである。

トラファルガーの海戦(1805年)から第一次世界大戦(1914年)までの間につくられた無差別戦争観に挑戦してきたドイツ。

 第一次世界大戦後、アメリカの台頭によって、人類の名において正しい戦争、間違った戦争という評価による差別戦争観が生まれ、戦争責任、戦争犯罪を追及するというキリスト教的、ユダヤ教的人類の裁きの法廷が開かれるように方向づけされた。その新しい「戦争と平和のルール」の被害を被ったのはドイツであり日本であった。

 参考文献:「蘭印・仏印史」大江満雄

2018/03/28に公開



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