-【GHQ焚書図書開封 第140回】
-前期水戸學の主張-
光圀は、肇国の当初、天照大神が皇孫に与えた三種の神器を保有している南朝を正統、保有していない北朝を閏統とした。
列伝には、皇妃列伝、皇子列伝、皇女列伝、群臣列伝(藤原鎌足、和気清麻呂、大伴家持、菅原道真、平重盛、藤原藤房、藤原師賢、源親房、同顯家、同顯信、同顯能、楠木正成、同正行、名和長年、兒島高徳、菊池武光、同武時、結城宗廣、新田義貞など)があり、その下に将軍列伝(源頼朝、足利尊氏など)が位置していた。
家臣列伝には、北条時政、同義時、同泰時、同時頼、同時宗、大江広元などが該当していた。その他に孝子列伝、義烈列伝がある。
江戸時代朝鮮通信使が日本に支那の漢文、儒学を教えたが、ある時期から朝鮮通信使が驚くほど日本はナショナリズムが勃興し、近代化し始めた。その当時、朝鮮通信使は、オランダ人、支那人以上に厚遇されていた。
林羅山は、幕府と朝廷と言ったり、将軍への襲職を即位と言ったり、家康のことを「吾日本国主源_家康」と外交文書に書く等何ら尊王の念を持っていなかった。
勧懲主義の光圀は、大義名分を重んじて、乱臣賊子を戦慄させた。今日、大義名分に照らせば、天皇は男系長子相続である。
南朝正統論者であった光圀であったが、後に北朝の明治天皇は南朝の忠義を良しとし、光圀に対して正一位の最高の位を与えている。
前期水戸學では、孔子の神話否定の影響を受け、古事記の神話は歴史として扱わなかったが、後期水戸學では神話的歴史観を取り入れている。
林家の本朝通鑑では、天皇は「呉の種」などと述べているため、尊王思想の光圀は大変立腹した。
御三家の中で水戸藩は尾張、紀州の1/2の28万石だったことから、御三家として同等の付き合いを維持するため、殖産に力を入れるなど大変苦心した。
参考文献:「水戸學要義」深作安文、「藤田幽谷の人物と思想」松原晃、「訳文 大日本史」山路愛山
2017/7/5公開
【竹田学校】歴史・飛鳥時代編⑦~大化の改新①~|竹田恒泰チャンネル2
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