【GHQ焚書図書開封 第141回】
-幕府大老に堂々と忠言した十八歳の藤田幽谷-
古着商の息子として生まれた藤田幽谷が、後に遥に武士、学者達を凌いで水戸學中興の師と仰がれるにいたったのには、彼の非凡なる資質と不撓の研鑽があった。
天才幽谷は、10歳で読書に熱中し、青木侃斎に師事し、数カ月で四書五経の読み方だけは卒業した、11歳で漢詩をつくり、13歳で大人を凌ぐ漢文を作った。彰考館の館長立原翠軒の門下生へと進み、志学論、安民論、正名論(せいめいろん)、建元論を発表した。
18歳の頃、白河楽翁(松平定信)が幽谷を幕府で採用しようとしたが、正名論で君臣の大義を明らかにし、幕府の厚意に酬いたものの、賎覇の意を示した点があり、不採用となった。
これが、幽谷の運命の分かれ道でもあった。
その後、文公に建白書を出し、藩政に口出しし、改革をせまるも、過激な発言のため小石川彰考館から水戸へ戻された。
幽谷が、このような行動がとれた背景には、天皇が幕府よりも上という信仰、天皇は絶対者であるという信仰があったためである。幕府は世間、世間を超えたものが天皇であるとの確信があったのである。
凡そ名分というものは、天下国家にあっては厳正でなければならぬこと。 丁度、天と地を変えることの不可能なるがごとくである。 天は物を覆い、地は物を載せ、天は高く、地は低い。これと等しく君は尊くおはし、臣は位が卑しいのである。この君臣があって上下があり、上下があって礼儀の落ち着くところがある。これに反して、君臣の名が正しくなく、今日の君は、明日は臣となり、今日の臣は明日は君となると言う風であれば、上下の分は厳正でなくして尊きものと賎しきものと、その位を変え、貴きものが賎しくなり、賎しいものが尊くなり、強いものは弱いものを凌ぎ、多数者は多数を恃んで少数者を襲うであろう、そうなれば、日ならずして国は亡んでしまう外はないというのである。
水戸家や幽谷は尊皇敬幕であったが、上下関係においては、将軍は天下国家を治める位置にあるのであって、上には天皇を奉戴し、下には諸侯を率いておる。これは覇者の行いであって、断じて王と称してはならないという考えであった。
参考文献「藤田幽谷の人物と思想」松原晃 「水戸學講話」高須芳次郎 「水戸學要義」深作安文
2017/7/19公開
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