俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

民主党

2010-01-19 15:53:41 | Weblog
 民主党は決して金権集団ではない。金権集団は小沢グループと自民党の一部だ。
 鳩山内閣は連立内閣だが、民主党そのものも連立政党だ。7奉行に代表される集団と小沢グループは全然別の政治集団だ。
 もともとの民主党はリベラル派の政党だった。ところが途中から合流した自民党崩れの小沢グループのほうが数の上では多くなってしまった。その結果、今では主流派は小沢グループになってしまった。廂を貸して母屋を取られた状態だ。
 民主党の悲劇はこんな自民党崩れのヤクザな集団と党派を組まねばならなかったということだ。それは発展途上国で、軍事政権を倒すために民主主義勢力がテロリストと手を組まざるを得ないようなものだ。
 もしテロリストと組んだ民主主義者が軍事政権を倒したら、彼らは真っ先に何をするべきか、テロリストの追放だ。絶対に許してはならないことは何か、テロリストと軍事勢力との連携だ。日本では果たしてどうなることだろうか。

移ろうもの

2010-01-19 15:36:33 | Weblog
 人間は矛盾を内包する。統一された自我など幻想でしかない。
 ダイエットしたいと思いつつ菓子を食べる。一所懸命働きたいと思いつつサボる誘惑には抗し難い。家族の幸福を願いつつ放蕩をやめられない。
 多くの場合これらは社会人としての立場と個人としての立場の相克だが、人はそんなことで片付けられるほど単純で分かり易い生き物ではない。個人のレベルで既に分裂している。
 人は愛しつつ憎む。可愛さ余って憎さ百倍ということはしばしば起こる。
 自由でありたいと思っても自由であることの重みに耐え切れず自らの意志で自由を放棄する。隷属したいという願望を多くの人が持っている。
 男は女性に昼は淑女で夜は娼婦であることを望む。こんな願望に応えることは困難だ。
 ペルソナを統括する自我がある訳ではない。自我とは結局ペルソナの総和(シグマ)だろう。
 多分、移ろわぬものを信じ、移ろうものをまやかしと考える姿勢そのものが誤りなのだろう。
 例えば大和川はいつも異なる。同じ場所であろうとも水量も違えば水質も、更にそこにいる生き物に至っては全然違う。それにも関わらず大和川という固定した名称で呼ばれる。
 人も10年も経てば殆ど別人になっているだろう。
 理性(ロゴス)は安定した不変なものを好む。それは移ろうもの・変化するもの、あるいは不確かなものを取り扱うのが苦手だからに過ぎない。固定化・単純化・抽象化してしまえば理性には扱い易くなる。しかしそれは歪められた世界でしかない。移ろわないものなど存在しない。
 移ろうものは空ろなものではない。移ろうもの・変化するもののみが実在する。

個性化と多様化

2010-01-19 15:19:54 | Weblog
 個性化と多様化を目指して教育をすればどんな社会へと向かうだろうか。当時の文部省はどんな社会をイメージしたのだろうか。多様な価値を相互に認め合う成熟した文化社会を?
 実現したのは自らの価値観を唯一のものと信じて、他者の権利を否定する我儘な者の大量生産でしかなかった。かくして社会は秩序を失った。
 しつけと称して日常的に暴力を振るう者が親としての権利を主張する。子供の権利は認められていない。
 養育される権利を主張して親を奴隷の如く扱うパラサイト。親の人権は無視される。
 電車やエレベータ内で大声で話す者は話す権利があると考える。つまり静かに乗る権利は否定される。
 大きな音を立ててスープを啜る者はそれが普通の行為だと思っている。テーブルマナーの存在には関心を持たない。
 個性化・多様化を進める教育には大きな欠陥があった。自分と同様に他人にも権利があり、それを尊重しなければ争いになるという視点がどういう訳か欠落していたようだ。
 本当に個性的な人は自分が少数派であることを自覚している。子供の頃から、他人と違うということに悩み続けて熟知している。ところが俄か個性派である偏狭な者には他者が見えない。自分の考えが絶対、あるいは皆が自分と同じように考える筈だと思い込む。だから自分の行動は常に正しいと考える。偏狭な者の個性化など迷惑でしかない。偏狭な者に権利を主張させてはならない。偏狭な者には毅然とした態度を採るべきだ。今年の成人式での佐世保市長のように。甘やかして増徴させてはならない。