俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

不登校

2010-02-09 14:02:19 | Weblog
 現在、小学校で275人に1人、中学校で36人に1人、高校で56人に1人が不登校だそうだ。トータルでは100人に1人ぐらいだろう。この事実から学校というシステムの問題性が問われている。
 しかし100人に1人しか不登校が出ないということは実はスゴいことではないだろうか。学校制度の支持率は99%だ。これは発足直後の鳩山内閣の支持率を遥かに上回る驚異的な数値だ。たとえ東京ディズニーランドやゲームセンターでも1%以上の子供が「行きたくない」と駄々をこねるだろう。僅か1%の不支持を根拠にして制度を見直すなど暴挙ではないだろうか。こんな見直しは改善ではなく改悪にしかならない。
 私は決して1%の人を切り捨てて良いと考える訳ではない。1%の少数者には違った対応をすれば良い。エジソンは殆ど学校に行かなかった。それで良い。学校へ行かない者を無理やり行かせる必要は無い。通信教育などその子供に合った教育を与えるべきであり、増してや集団生活に馴染めない少数者に合わせて学校を変えるべきではない。そんなことをすれば今度は現状での適応者が不適応者になってしまう。変に制度をいじれば違ったタイプの不適応者を生むだけだ。99%で充分だ。

健康増進法

2010-02-09 13:45:25 | Weblog
 平成15年の健康増進法の施行以来、喫煙者は肩身の狭い思いをしている。来年の春には従業員が受動喫煙に会わないことを企業に義務付ける法律が提出されるそうだ。
 そんな法律が実施されたらどうなるだろうか。居酒屋や特急の喫煙席を通る店員や車掌にはガスマスクでも着けさせるのだろうか。そんな馬鹿なことはできないから、結局、全席禁煙ということで収まるのではないだろうか。
 健康増進法は表向きは喫煙を禁止する法律ではない。しかし「受動喫煙」という概念を明文化することによってこの概念が一人歩きして禁煙活動に向かうことは容易に予想できる。分煙により喫煙者と嫌煙者の共存を図るようなスタンスを取りながら、実は社会から煙草を追放することを目論んだ狡猾な法律だろう。
 この法律にはもう1つ大きなトリックがある。「健康は国民の責務」とされていることだ。これは奇妙な条文だ。なぜなら憲法第25条には「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と明記されている。ところがこの法律では健康を権利から義務へと摩り替えている。つまり国民の権利=国の義務の筈の国民の健康が国民の責務つまり自己責任に変えられてしまった。
 国民が健康な生活を送るためには社会や労働環境などの整備が不可欠だ。この事実を無視して自己責任に摩り替えるのは悪法であり憲法違反だとさえ言える。こんな法律を社会に定着させてしまえばいずれ「国民は文化的な生活を営む義務がある」という理念に基づいた法律まで作られかねない。

美と金

2010-02-09 13:30:28 | Weblog
 男は美を好み、女は金を好む。「逆じゃないか」と突っ込まれそうだがこれが真の姿だろう。
 配偶者の選択において男は女の美しさを最優先する。人格や知性や家柄は二の次だ。美しさは健康の証でもある。ガリガリに痩せた女や肥満体の女や皺だらけの女を男は好まない。ウェストがくびれたメリハリの効いた体形の若くて元気な女を好む。
 男のこの嗜好に合わせて、女は若く美しく見えるように努める。そうしないと伴侶を得られず子孫を残せないからだ。
 前回(2月5日付け「シンデレラボーイ」)でも書いたことだが、女は権力者や金持ちが大好きだ。そのために男は権力と金を獲得しようと努力する。権力と金を得た男は成功者として美しい伴侶を得る。
 社会的動物である人間にとって他者による評価は重要だ。自分で自分に下す評価よりも他者による評価のほうが実用性は高い。他者に高く評価してもらうためには、自分が如何なるものかであるよりも如何に見えるかが重視される。
 こうしてどんな自分で「ある」かよりもどんな自分に「見える」かを重視する、つまり内面を磨かずに外面ばかり取り繕うから人間はどんどん薄っぺらく表面的になる。これは性による淘汰が招く人類の劣化とさえ言えるだろう。