俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

歩行の達人

2010-02-12 15:20:56 | Weblog
 休日や昼間にターミナルの駅構内を歩くと普段とは全然違うということに驚く。とにかく歩きにくい。ぶつかることは無いがしばしば立ち止まらされる。
 普段、つまり通勤時に駅構内を共有するメンバーは、4月以外は、歩行の達人ばかりだ。達人はお互いに凄いスピードで歩きながら相手の動きを読んでいる。殆んど知覚困難なほど微妙な動きから相手がどちらに動こうとしているかを予測する。次々に擦れ違う不特定多数の初対面の人々を相手にしているのに正確な判断を下して驚異的なほどスムーズな流れを作る。視覚で捕え得る総ての情報を使って最適の進路を選んでいる。ルールが無いにも関わらず秩序がある。人間には凄い能力があると感心する。人込みの中で毎日足早に歩くからまるで一流アスリートのようなこんな能力が培われるのだろう。
 休日の駅構内は全然駄目だ。ダラダラ歩く、斜めに歩く、横並びで歩く、余所見をする、躊躇する、変な場所で立ち止まる、判断力が乏しい、腕を前後に振って歩く、キャリーカートのアームを長く伸ばす、等々。熟練していない歩行者と一緒に歩くことは難しい。通勤時のような快適でスピーディな歩行は不可能だ。

時持ち

2010-02-12 15:06:24 | Weblog
 時間は誰にでも平等に与えられている。一日は誰にとっても24時間であり、どんな権力者や大金持ちでもこれを25時間に増やすことはできない。量が変えられないなら質が問われる。つまり如何にして質の高い時間のシェアを高めるかということが課題となる。質の高い時間を増やして質の低い時間を減らせれば時持ちになれる。
 私にとって質の高い時間とは思索、読書、議論、スポーツなどだがこれは全然万人向きではない。何を重要と考えるかは多分に個人の趣味の問題だろう。一方、何が無駄かはかなりの普遍性を持つ。
 一番の無駄は不本意な労働だろう。生活のためには金が必要で、金を稼ぐためには働かざるを得ない。しかしどうせ働くなら少しでも自分を向上させる仕事に従事したいものだ。奴隷やギリシャ神話のシジフォスのような労働は忌避したい。
 次に避けたいのは闘病だ。これは重い病と闘うという意味に限らない。例えば風邪を引いて数日間を無為に過ごすことなどは人生の無駄遣いと思える。それを未然に防ぐためには健康管理には充分に注意する必要がある。
 この2つを実現できれば、金持ちにはなれなくても時持ちにはなれる。時持ちになってから何をやるかはあとで考えても構わない。時持ちにさえなれれば考える時間はたっぷりあるのだから。

死刑執行人

2010-02-12 14:44:27 | Weblog
 死刑制度に対する支持率は年々高まっている。内閣府の調査では昨年の死刑容認率は史上最高の85.6%に達したそうだ。凶悪犯罪に対する不安が支持率を高めているようだ。
 しかし死刑が国による殺人であることは否定できない。そして死刑を執行するためには誰かが実際に手を下さねばならない。つまり命じられて死刑囚を殺す人が必要となる。職務として殺人の命令を受けた人にそれを拒絶する権限は無い。
 死刑執行人の罪悪感を薄めるために、絞首台の踏み板を外すボタンは3つ設けられており、それを3人が同時に押す。こうすることによって本当の執行人が誰であったのか分からないようにしている。しかし多分3人共、自分の押したボタンで死んだと思うだろう。
 ボタンを押すのは刑務官の仕事だ。つまり毎日死刑囚と顔を合わせて会話を交わしていた刑務官が死刑執行人になる。
 ここに大きな疑問を感じる。人は顔を合わせていると立場に関わり無く連帯感を持つ。中には悔悛した死刑囚の高潔な人格を心から尊敬する刑務官もいるそうだ。
 なぜ生活空間を共有する刑務官に死刑を執行させねばならないのか。いっそのこと被害者の遺族にボタンを押す権利を与えたらどうだろうか。
 アメリカの一部の州では被害者の遺族が死刑執行の現場に立ち会うことが認められているそうだ。希望する遺族に死刑執行の権利を与えれば少しは気持ちの整理もできるのではないだろうか。これは刑務官の心の負担の軽減にもなるのだから一石二鳥の名案だと思うのだがどうだろうか。
 肉を食べるためには人が必要なように死刑制度を存続させるためには死刑執行人が必要だ。職業として人を殺さねばならない国家公務員がいるという事実から我々は目を逸らしているのではないだろうか。