俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

八百長

2011-02-04 15:47:46 | Weblog
 悪事を働く人はそれが発覚しないように細心の注意を払うものだ。子供であれ暴力団員であれこのことは共通している。従って悪事を共謀する人は極秘裏に打ち合わせをする。証拠の残るメールを使うことなど本来あり得ない。
 ではなぜ八百長力士はメールを使っていたのだろうか。2つの理由が考えられる。①悪いことと思わなかった②日常的行為だった。
 ①についてはあり得ない。これまでに何度も八百長疑惑が取沙汰され八百長が悪いということは分かっている筈だ。
 すると②ということになる。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ということだろうか。つまり八百長はそれほど蔓延していたということになる。
 相撲は八百長がやり易いスポーツだ。個人競技でありしかも発覚しにくいからだ。野球と比べればそれは明々白々だ。
 野球は団体競技なので一人八百長は難しい。野手ならせいぜい全打席で三振して全守備機会でエラーをするぐらいしかできない。投手でもできることは限られている。棒球を投げても相手がヒットを打ってくれるとは限らない。確実なのは四球を乱発することだがそんなことをすればすぐに交代させられる。
 相撲の八百長は簡単だ。ほんの少し力を抜いたり下手な足捌きをするだけで簡単にいかにも自然に負けることができる。
 「無気力相撲」が厳しく取り締まられた時期があった。八百長の疑いがあるからだ。最近さっぱり聞かれなくなったのは無気力相撲が無くなったからではなく、疑惑を報じた週刊誌に対する勝訴が相次いだので相撲協会がマスコミを恐れなくなったからだろう。
 他人の褌で相撲を取る訳にはいかない。自ら褌を締め直して自浄を図らざるを得ない。

最小不幸人生

2011-02-04 15:34:51 | Weblog
 菅首相は「最小不幸社会」という理念が大好きなようだ。これを理想の社会と考えているように思える。
 そんな社会が良いかどうかは分からないが、私は「最小不幸人生」などを求めようとは思わない。不幸を最小化しようとすれば幸福も最小化されるからだ。
 人はどういう時に幸福を感じるか、苦難を克服した時だ。不幸があったからこそ至福を感じる。苦労もせずに手に入れた幸福などに興味は無い。そんなものは捨ててしまってもっと手に入れにくい幸福を追求したい。
 谷が無ければ山はあり得ないように影が無ければ光はあり得ない。影の無い世界とは薄暗いぼんやりとした世界だろう。そんな薄暗い世界よりも光に満ちた世界のほうが望ましい。
 最小不幸社会とは日本人総てが家畜化された社会だろう。誰一人として食い逸れしないが誰一人として幸福でない社会だろう。まるで動物園で飼育される野生動物のようであり、ニーチェが「ツァラトゥストラ」で予言した「お終いの人間」の社会の具現化とさえ思える。最近急増していると言われる草食系男子にとっては快適な環境かも知れないが私はご免蒙りたい。
 老人ホームで家畜のように養われるよりは何かに挑んで野垂れ死にしたほうがずっとマシだ。

3K

2011-02-04 15:20:16 | Weblog
 3Kと言っても「危険・きつい・汚い」のことではない。「国鉄・米・健保」のことだ。この3Kは長い間国の3大負担だった。これらが税金を食い荒らしていた。
 国鉄は民営化され米の食管法は廃止されたが健保(国民健康保険)は制度を手直ししながら存続している。
 しかし健保は存続させるべきものなのだろうか。存続不可能な健保を存続させようとするから矛盾が拡大しているのではないだろうか。他の2Kと同様に廃止または抜本的改革が必要と思われる。
 なぜなら健保はピラミッド型の人口構成を前提としている。病気の多い少数の高齢者を病気の少ない多数の現役世代が支えるという仕組みだ。現実はこのモデルから懸け離れている。病気の多い多数の高齢者を病気の少ない少数の現役世代が支えられる筈が無い。そのために現役世代の負担が過大になっている。
 制度と現実が乖離した時に改められるべきなのは制度であって現実のほうではない。制度の欠陥を無視して現実を否定しようとする人は「子供を増やせ」と主張する。子供を無理やり増やすために費用対効果がマイナスにしかならない子ども手当てのような無駄遣いをして財政を更に悪化させる。
 悪評高い後期高齢者医療制度の考え方は決して誤っていなかったように思える。高齢者の医療費を現役世代だけに押し付けるべきではない。元気な高齢者にも分担して貰わなければ医療は崩壊する。元気な高齢者は支援される側ではなく支援する側に回るべきだろう。