俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

見えない恐怖

2011-05-03 15:13:59 | Weblog
 放射能が風評被害を生み易いのは知覚できないからだろう。放射能は見えない・聞こえない・熱くも痛くもない・臭わない・味も無いから5感のどれによっても知覚できない。こんな有毒物は病原菌と無色・無臭の有毒ガス以外には殆んど無かろう。そのためにインフルエンザの感染パニックと似た反応を起こす。
 一説によると人間の情報依存度は視覚87%、聴覚7%、触覚3%、嗅覚2%、味覚1%とのことだが、これはあくまで情報としての話であり、実在性を測る要因としては触覚と視覚のウェイトが高い。触れるものと見えるものは実在すると考えられ勝ちだ。そして最優先順位は触覚だ。
 触れるけれども見えないもの、例えば透明な物体に対しては「見えないけれど在る」と評価する。逆に、見えるけれども触れないもの、例えば映像や蜃気楼に対しては「見えるけれども無い」と評価する。存在の有無の最終基準は触覚だ。
 触覚あるいは物理的な力がありながら見えない有害物を人は極度に恐れる。放射能やウィルスなどは見えないだけに過剰反応を生み易い。
 知覚の偽りについては錯視が最も広く研究されている。中でも立命館大学の北岡教授がホームページで公開している動く静止画には驚嘆させられる。一方、触覚が誤ることは少ない。珍しい実例として幻影肢が挙げられる。これは手足を失った人が指などの痛みを訴える症状だ。指に繋がっていた神経が何かの刺激に反応しているのだろうが、存在しない指を治療することは不可能だ。

ペンと剣

2011-05-03 14:59:33 | Weblog
 ある文筆家が新聞社に勤めていた時の話だ。
 彼は入社試験の小論文の採点を担当した。テーマは「ペンは剣よりも強し」だった。採点を始めてしばらくすると苛立ちを禁じられなくなった。どの論文も「ペンは剣よりも強い」と熱弁を振るう全くのワンパターンで、彼は「ペンは剣よりも弱い」というテーマで書いていれば満点を与えたいと思ったそうだ。
 新聞社を受験する人はペンの力に期待している。ペンは剣よりも強くあって欲しいと願っている。そのためにペンが剣よりも強いことが自明の理になってしまって実はペンが弱いということに気付かない。
 願望が事実を歪めるということは原発にも当て嵌まる。誰だって大きなエネルギー源である原発が安全であって欲しいと願う。しかし願望は事実ではない。願望を事実だと思い込んでいたからこそ原子力安全・保安院は形式的な審査だけで安全を保証してしまった。もし危険物という認識があったなら福島第一原発の継続使用は認められていなかっただろうし、当然今回の事故も起こらなかっただろう。
 厚生労働省は薬を危険物と認識している。従って新薬は慎重に審査される。危険と認識していれば最大限の注意を払わざるを得ない。これが原子力安全・保安院との大きな違いだ。
 願望と事実を峻別して事実に基づいて考えることの重要性を今回の原発事故から学ぶべきだろう。

事実命題

2011-05-03 14:45:47 | Weblog
 原発事故が起こる前なら私が「原発は危険だ」と言っても「電気が必要だから原発は必要だ」と反論されていただろう。この会話は議論としては成立していない。私は「原発は危険である」という事実を指摘しただけであって「原発が必要かどうか」という価値命題には論及していない。
 仮に原発が必要であっても危険であるということは事実として認められねばならない。必要かどうかは価値判断であり様々な考え方があり得る。しかし危険であるということは事実命題であって否定することは不可能だ。
 従って彼の主張は論理的には次のとおり修正されるべきだ。「電気が必要だからたとえ危険であっても原発は必要だ」と。
 もし日本人がこのことを明確に認識していれば今回の事故は起こらなかっただろう。しかし実際には「安全神話」が支配していた。それは「必要だから安全」という無茶苦茶な理屈だ。
 危険なものは必要であろうとなかろうと危険であることに変わりはない。勿論私は危険・安全という2分法は採らない。危険度が高いということだ。
 この際、つまり原発が危険なものという共通認識が生まれたからこそ、原発推進論者に鞍替えしようかと大真面目に考えている。危険性が正しく認識されればその危険性は大きく軽減されるからだ。危険なものを危険と認めない状況が最も危険だ。