俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

理不尽な要求

2011-05-06 15:47:06 | Weblog
 JR福知山線事故の遺族が「息子を返せ」と罵ったり、原発事故の避難民が「今すぐに放射能を止めろ」と発言したりすると嫌な気分になる。被害者側ではなく加害者側に同情してしまう。理不尽な要求は加害者いじめにしかならないからだ。加害者側が反論できないことが分かっているから被害者はこんな理不尽な要求をする。
 水に落ちた犬を叩くという言葉がある。窮地に陥った敵をここぞとばかりに攻撃するという意味だ。困り果てている者に更に攻撃するのではなく「武士の情け」を大切にしたいものだ。
 要求は現実的でなければならない。実現不可能な要求は問題解決には繋がらない。感情的な対立を深めるだけだ。反撃される心配が無いからこそ理不尽な要求を使って加害者を攻撃する被害者は卑劣だ。
 我々は多数決を是とする社会に住んでいる。多数者の意見を正しいものと見なすという奇妙な社会だ。
 多数者とは相対的な概念だ。イスラム教圏でのクリスチャンやキリスト教圏でのイスラム教徒は少数者として排斥される。東電に1人で乗り込んだ被災者も同じだ。だから集団で押し掛ける。同じ主張であっても集団なら権力になる。
 多数者であれば理不尽な要求であろうと正当と見なされる社会は知的に未熟な社会だ。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ではなく個人が正邪を判断すべきだ。群居動物から脱皮して確固たる主体性を確立すべきだろう。

東電の責任

2011-05-06 15:29:24 | Weblog
 東京電力は賠償金を支払うために電気料金を値上げするそうだ。もしこれが実施されれば賠償金は関東に住む人が負担するということになる。こんな大災害を起こしても懐が痛まないとは真に奇妙なことだ。
 但し私は道義的にはともかく法的には東電に無限賠償責任は無いと思っている。原子力損害賠償法(以下「原賠法」)では事故を起こした原子力事業者に無限賠償責任を負わせているが、その一方で「異常に巨大な天災地変または社会的動乱」による損害は免責されると明記されているからだ。もしこの1,000年に1度と言われる大震災が異常に巨大な天変地異に当たらないという首相見解を認めるなら、この免責事項はどんな天変地異にも適用されない空文になってしまう。それでは法律と言えない。従って東電は原賠法上では免責であり一般の法律に基づいて責任を問われるべきであることは明らかだ。
 菅内閣のポピュリズム体質がモロに現れている。東電批判の世論に迎合するためなら法律さえ歪めようとしている。たとえ大衆が東電を咎めようとも法律を遵守すべきだ。それが法治国家だ。
 仮に東電が原賠法上での無限賠償責任を免れたとしても有限賠償責任や刑事責任・民事責任が免除される訳ではない。原賠法以外の法律に則って適切に処罰されるべきだろう。
 東電を免責にすることには意外なメリットもある。東電だけではなく国の負担にもなることによって関東住民の過大な負担が軽減される。こんな大災害の負担は関東に押し付けずに国民全体で公平に負担すべきだろう。

放射線

2011-05-06 15:10:02 | Weblog
 大量の放射線を浴びれば死ぬことは間違いない。しかし微量の放射線はどの程度有害なのだろうか。先日、年間20ミリシーベルトの是非を巡って内閣官房参与が辞任したが一向に科学的な解明が進められていない。日本人は年間2.4ミリシーベルトの自然放射線を浴びているのだから2.4ミリシーベルトが危険値でないことは確かだろう。
 こんな時は千の議論よりも実例、つまりエビデンスに基づくべきだ。広島・長崎・チェルノブイリという被曝例があるのだから被曝者の健康被害を調べれば安全基準も明らかになる筈だ。
 そう思っていたらぴったりの本が見つかった。ブルーバックスの「人は放射線になぜ弱いか」だ。この本は初版が1985年で私が読んだのは第3版第8刷だ。25年以上読み継がれているロングセラーだから充分に検証され修正も加えられた確かな本だ。
 意外な結論だった。低レベルの放射線には人を健康にするホルミシス効果があるというものだった。広島・長崎・チェルノブイリでの少量被曝者はかえって長寿だとのことだ。年間100ミリシーベルト程度なら有害どころか有益らしい。
 例えば塩1kgを1度に食べたら死んでしまうが365日に分けて食べたら有益だろう。1,000度の熱に直接触れたら火傷をするが離れて使えば暖房になる。放射線もそういうものなのかも知れない。そう言えばラジウム温泉という健康施設もあるし放射線による治療もある。
 放射線の安全基準が一向に決まらないのは実はそれほど有害ではないからだという可能性は決して低くない。本当に有害なものなら簡単に安全基準を定められるからだ。
 なおこの本のタイトルは文字通りの意味以外に「日本人はアジア史になぜ弱いのか」という言葉のように、放射線に対する無知を指摘しているとも解釈できる。