JR福知山線事故の遺族が「息子を返せ」と罵ったり、原発事故の避難民が「今すぐに放射能を止めろ」と発言したりすると嫌な気分になる。被害者側ではなく加害者側に同情してしまう。理不尽な要求は加害者いじめにしかならないからだ。加害者側が反論できないことが分かっているから被害者はこんな理不尽な要求をする。
水に落ちた犬を叩くという言葉がある。窮地に陥った敵をここぞとばかりに攻撃するという意味だ。困り果てている者に更に攻撃するのではなく「武士の情け」を大切にしたいものだ。
要求は現実的でなければならない。実現不可能な要求は問題解決には繋がらない。感情的な対立を深めるだけだ。反撃される心配が無いからこそ理不尽な要求を使って加害者を攻撃する被害者は卑劣だ。
我々は多数決を是とする社会に住んでいる。多数者の意見を正しいものと見なすという奇妙な社会だ。
多数者とは相対的な概念だ。イスラム教圏でのクリスチャンやキリスト教圏でのイスラム教徒は少数者として排斥される。東電に1人で乗り込んだ被災者も同じだ。だから集団で押し掛ける。同じ主張であっても集団なら権力になる。
多数者であれば理不尽な要求であろうと正当と見なされる社会は知的に未熟な社会だ。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ではなく個人が正邪を判断すべきだ。群居動物から脱皮して確固たる主体性を確立すべきだろう。
水に落ちた犬を叩くという言葉がある。窮地に陥った敵をここぞとばかりに攻撃するという意味だ。困り果てている者に更に攻撃するのではなく「武士の情け」を大切にしたいものだ。
要求は現実的でなければならない。実現不可能な要求は問題解決には繋がらない。感情的な対立を深めるだけだ。反撃される心配が無いからこそ理不尽な要求を使って加害者を攻撃する被害者は卑劣だ。
我々は多数決を是とする社会に住んでいる。多数者の意見を正しいものと見なすという奇妙な社会だ。
多数者とは相対的な概念だ。イスラム教圏でのクリスチャンやキリスト教圏でのイスラム教徒は少数者として排斥される。東電に1人で乗り込んだ被災者も同じだ。だから集団で押し掛ける。同じ主張であっても集団なら権力になる。
多数者であれば理不尽な要求であろうと正当と見なされる社会は知的に未熟な社会だ。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ではなく個人が正邪を判断すべきだ。群居動物から脱皮して確固たる主体性を確立すべきだろう。