俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

青い目

2011-06-10 15:31:04 | Weblog
 欧米の照明は日本よりずっと暗いから日本の過度な照明は無駄遣いだ、という主張を時折耳にする。日本の照明が明る過ぎるということに異存は無いが、欧米に合わせるべきだという主張には賛同できない。それは目の違いがあるからだ。
 日本人の黒い目は光を遮断する。西洋人の青い目は光を透過する。従って主観的な明るさが違う。知覚する明るさが違えば適正な明るさも異なる。白人と同居する日本人の多くが適正な照度に悩まされるのは当然のことだ。
 黒い目と青い目では光に対する感受性が異なる。南国の強烈な光に青い目は耐えられずサングラスを使うが日本人は平気だ。一方、薄暗い風土に適応した彼らの青い目は薄暗さに強い。
 かつて大丸梅田店は白人を総合コンサルタントに据えた。その結果、西洋人にはぴったりの明るさ、つまり日本人には薄暗いと感じられる店が生まれた。私も開店早々に立ち寄ったが暗くて陰気な店という印象を持った。その後、苦情が相次いだために日本人好みの明るさに改めたと聞く。
 照明を欧米レベルにすることは西洋かぶれの一種だ。それは足の長さを無視して椅子の高さを欧米サイズに改めるような愚行だ。

正しい怖がり

2011-06-10 15:13:58 | Weblog
 「ものを怖がらな過ぎたり、怖がり過ぎたりするのはやさしいが、正当に怖がることはなかなかむつかしい。」(寺田寅彦)
 原発事故までは日本人は原発を過度に安全視していた。重大な事故など起こる筈が無いと決め付けて非常時対応を怠っていた。いざ事故が起こると掌を返して危険物として排除しようとする。
 これは君子豹変ではない。理性的な判断ではなくパニックで右往左往する群集のようなものだ。正しく怖がらないのが誤りであるように怖がり過ぎるのも誤りだ。
 原発事故が起こったからこそ原発はこれまでより百倍以上安全になった。これまで疎かにされていた安全対策がそれなりに実施されるようになった。私はこれまで否定し続けていた原発を必要悪として容認しようとさえ考えている。
 被曝についてはこれまでも怖がり過ぎていたし今では更に怖がり過ぎている。もともと年間1.4ミリシーベルト自然被曝していたことを無視して被曝量ゼロを主張する。
 植物に放射線を当てて突然変異を起こさせて品種改良が行われていることからも明らかなように、放射線は性細胞に大きな影響を与える。大量に被曝すれば性細胞は真っ先に死滅する。死滅しないギリギリの大量被曝において遺伝子に変異が現れる。少量被曝では遺伝子に異常は発生しない。広島・長崎の被爆者二世に奇形児は殆んどいない。被曝すれば奇形児が生まれるなどといった偏見が蔓延しているのはマスコミの怠慢が原因だ。

人事

2011-06-10 14:59:09 | Weblog
 日本人は努力が報われることを正当と考える。その一方で現状では運とコネによって地位が決まっていると考えている。
 アメリカ人は成果を重視すると同時に個人の能力と学歴による差別を正当とする。
 学歴社会の韓国では成果以上に学歴がモノを言う。
 この3国を比べた場合、最も不合理な人事制度を採っているのは日本だろう。日本では努力家というポーズと運とコネによって地位が決まる。
 日本には成果主義は無い。努力主義だ。それも見掛け上での努力主義だ。頑張っているように見せる人が高く評価される。水中で忙しく水掻きをしている人は評価されず派手に羽ばたいて見せる人が評価される。
 その結果、日本ではトップとボトムの能力の差が殆んど無くなる。一所懸命に働いているように見せる頭の悪い・性格も悪い人がトップになり、そんなポーズを取らなかった賢い人はボトムに留まる。
 日本でトップダウンが失敗し勝ちでボトムアップが成功するのはそもそもトップとボトムに能力の差が無いからだろう。能力が違わなければ現場を見ている人のほうが正しい判断ができる。現場が賢いのは賢くても地位を得られない人が多く、トップが阿呆なのは能力ではなくスタンドプレイや運やコネで地位が決まるからだ。
 この国の指導者の多くが阿呆であるのは残念なことだ。指導者の言葉は虚しい。むしろ現場の人々の言葉のほうが心に響く。