俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

日本語力

2011-06-24 15:14:05 | Weblog
 誰でも見ている(see)が観る(watch)人は少ない。誰でも聞いている(hear)が聴く(listen)人は少ない。誰もが食べる(eat)が味わう(taste)人は少ない。習う(learn)人ばかり多くて学ぶ(study)人は少ない。話す(talk)人ばかり多くて語る(speak)人は少ない。
 私が子供の頃は英語のヒアリングと言っていたが今ではリスニングと呼ばれているらしい。
 今年から小学生にまで英語が義務付けられた。グローバル化した社会では少しでも早くから英語に馴染んだほうが良いという考えかららしい。
 私個人としては小学生に英語は不要だと思う。まだ日本語さえ未熟な彼らに外国語を教えるよりも日本語をもっと学ばせたほうが良いと思う。
 と言うのも、私自身この歳になってもまだ日本語力の不足を痛感しているからだ。思ったことを上手く表現できない、漢字を読めない、故事成句を知らない等々、日本語力の不足を感じる毎日だ。
 私は大学で英・独・仏・ラテン・ギリシャ語を学んだ。これが無駄だったとは思わないが、その労力を日本語力の向上のために使っていれば良かったのではないかと今では思っている。
 表現のテクニックや笑いのツボなどは学習することができる。日本語力は自然に身につくものではない。大変な努力が必要だ。

節電生活

2011-06-24 14:56:04 | Weblog
 夏至を迎える頃から急に暑くなった。急激過ぎて体も生活スタイルも上手く適応できず早々と夏バテしそうだ。
 この夏は原発事故のせいで日本中が節電を強いられている。私も節電策を1つ提案する。
 まず冷蔵庫以外のコンセントを総て抜いてから外出する。徒歩か自転車での移動が理想だが電車も可とする。乗客が一人や二人増えたところで電車の電力使用量は殆んど変わるまい。
 行き先は水辺だ。水辺で読書とスポーツを楽しむ。太陽光を使って本を読み、暑くなったら泳げば良い。これならエアコンも照明も要らない。自然の風が扇風機代わりになって充分涼しい。日光が嫌いな人は日陰に隠れれば良い。
 高校生までは田舎暮らしだったので美しい川辺でそんな生活ができたが、今、私が住んでいる大阪では無理だ。人工物のプールサイドで我慢するしかない。プールも悪くない。川よりも遥かに安全だ。突然増水することもないし底が平らなので溺れる危険性も少ない。トイレや売店もあるから便利だ。
 昔マホメット(最近では「ムハンマド」とも表記される)は信者の前で「山よ動け」と命じたが山は動かなかった。その時、彼は慌てず騒がず「山は動きたくないようだ」と言って山へ向かってスタスタと歩いて行ったそうだ。相手が動かなければ自分が動けば良い。暑ければ涼しい場所に行けば良い。自分のいる場所の気温を下げるよりも気温の低い場所へ行くほうがずっと簡単だ。山や森へ行っても、水辺へ行っても涼しい。

原発のコスト

2011-06-24 14:40:26 | Weblog
 原発が低コストだというのは全くの嘘だ。粗悪で不充分な施設にしているから低コストになっているだけではない。次世代・次々世代以降にツケを回しているから現時点では低コストになっているだけだ。
 原発の放射性廃棄物は現代の技術では処理不可能だ。そのうち技術が開発されるだろうという甘い見込みで垂れ流されている。無害になるまで1万年とか百万年とか言われる核のゴミの保管費は原発のコストには算入されていない。これは次世代どころか遠い子々孫々へのツケ回しだ。1万年国債のようなものだ。
 廃棄物だけではない。廃炉も問題だ。一旦原発を作ってしまえば廃炉にしても何百年も利用不可能な土地となる。貴重な土地が立ち入り禁止区画になってしまう。
 一旦原発を作ってしまえばその土地の再利用は著しく困難だ。従って既にある原発は可能な限り使い続けたほうが良かろう。一時の感情で原発を止めることはデキの悪い社員を不当解雇するようなものだ。一旦採用してしまったからには何とか使いこなさざるを得ない。
 私は新たに原発を作ることには賛成しない。しかし既に作ってしまった原発は安全性がある程度確保される限りは使い続けたほうが良いと思う。毒を食らわば皿まで、というように作ってしまった有害な施設はできるだけ有効に使うべきだろう。動かしている限りは電気を生むが止めてしまえば唯の危険物だ。