俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

味覚障害(1)・・・旨味

2016-03-15 09:50:42 | Weblog
 抗癌剤の副作用によって私が患った味覚障害は少なからず哲学的な意味を持つ障害だ。人が外界を知るためには知覚というフィルターを通さねばならず、それが狂えば外部認識も狂う。
 入院するまでの約2週間、固形物を一切食べなかった。吐血することを恐れて、医師から処方された栄養飲料と野菜ジュースと水だけに依存していた。この節制が功を奏して入院後の2日間は、決して旨くない病院食を完食できる程度まで自然治癒していた。
 3日目に異変が起こった。抗癌剤の副作用による食欲不振と共に、全く予想しなかった味覚障害が生じた。最も顕著な障害は、和食の味を感じなくなったことだ。ご飯や吸い物や煮物などの「旨み」が全く分からない。辛うじて果物と乳酸菌飲料と、なぜかカステラの味だけが知覚可能であり、他の食品はまるで粘土細工のように感じられた。
 食欲が無く味覚も狂ったままで病院食の摘み食いを続けている内に、動物系のイノシシ酸は比較的正常に知覚できるのに植物系のグルタミン酸が知覚できなくなっているようだと分かった。障害は基本的に引き算として現れる。つまり「できなくなる」。何かを知覚「できなくなった」り、明らかに異なるものが区別「できなくなる」。
 この仮説を検証すべく、退院後に「味の素」を舐めてみて仰天した。味の素は塩辛かった。そんな馬鹿な、と思った。間違えて「味塩」を舐めているのだとさえ思ったが間違いなくグルタミン酸ナトリウムだった。
 私の狂った味覚は、グルタミン酸と塩化ナトリウムの2者の味を混同するようだ。だから昆布出汁を塩味と知覚する。本来なら旨みとして知覚すべきグルタミン酸を塩味として知覚すれば、和食の殆んどが単に塩辛いだけの料理になってしまう。
 私の場合は抗癌剤の副作用によって味覚が狂わされたことによる異変だが、赤緑色盲の人が赤と緑を区別できないように、先天的にグルタミン酸を塩味と知覚する人がいても不思議ではない。グルタミン酸の旨みを知覚できない西洋人は決して少なくないらしいが、彼らが私の狂った味覚と同様にグルタミン酸を塩味と知覚するのなら、和食などただ単に塩辛いだけの料理に過ぎない。 
 和食を世界に誇るべき食文化と信じることは日本人の独り善がりに過ぎないのかも知れない。