グルタミン酸を塩味としか知覚できないことの次に困ったのは、野菜に対する味覚が損なわれたことだった。入院直前の私の主食は医師から処方された栄養飲料とそれを補完するための野菜ジュースだった。退院後も徐々に固形食を増やしつつこの2つの飲料には頼る積もりでいた。ところが思わぬ大誤算が生じた。味覚障害のために野菜ジュースが不味くて飲めなくなった。それまではバランスが取れていた筈のジュースの味が、セロリの臭さだけが際立つ奇妙な味に変わってしまった。セロリの臭さは50年前に初めてセロリを食べた時に感じた不快感に類似しており、突然50年振りの古い印象が蘇った。
考えてみればセロリの味も野菜ジュースの味も決して単純なものではない。様々な味と香りが複雑に絡んでいる。その複雑な味の大半が消されて最も不快な味だけが知覚されるようになったように思える。
なぜか野菜は、セロリに限らずどれにも独特の臭みがある。ニンニクは勿論のことネギ類もピーマンなども臭い。野菜とは実は臭い食べ物だろう。大根やキャベツやモヤシなどが万能野菜のように扱われ勝ちなのはこれらが安価であるだけではなく比較的臭みが少ないからではないだろうか。
野菜ジュースは複雑な味と香りがブレンドされて微妙なバランスを保っている。味覚の一部が損なわれればバランスが崩れてとんでもない味に変わり得る。これはドミソのソが半音狂えば不協和音になるのと同じことだろう。
外部から伝わる刺激は知覚を通じて統合される。刺激は知覚によって統合されてから初めて伝達され刺激そのものが直接人に伝わることは決して無い。
無色光は決して無色ではない。太陽光線がプリズムを通過すれば無数の色と紫外線・赤外線に分解される。太陽光が無色であるのは無数の色によって構成されているからだ。青い光が青いのは、青い色素が多いからではなくそれ以外の色素が遮断されているからだ。
同じように様々な味と香りによってバランスが保たれていたセロリや野菜ジュースの味は、一部の味覚が損なわれることによって酷い味へと変貌し得る。だからこそ嗜好は千差万別・人様々になる。
野菜をとてつもなく不味く感じるようになったのは、もしかしたら狂いではなくリセットなのかも知れない。野菜とは元々最も不味い食べ物であり「食育」によって押し付けられた歪んだ嗜好なのかも知れない。もしそうであれば野菜を味わえる状態に戻ることはかなり難しそうだ。味覚が狂った人間の勝手な言い草かも知れないが、あれほど雑多で癖の多い野菜を同時に多品種摂取して不快に感じないことこそ不自然と言えるのではないだろうか。
考えてみればセロリの味も野菜ジュースの味も決して単純なものではない。様々な味と香りが複雑に絡んでいる。その複雑な味の大半が消されて最も不快な味だけが知覚されるようになったように思える。
なぜか野菜は、セロリに限らずどれにも独特の臭みがある。ニンニクは勿論のことネギ類もピーマンなども臭い。野菜とは実は臭い食べ物だろう。大根やキャベツやモヤシなどが万能野菜のように扱われ勝ちなのはこれらが安価であるだけではなく比較的臭みが少ないからではないだろうか。
野菜ジュースは複雑な味と香りがブレンドされて微妙なバランスを保っている。味覚の一部が損なわれればバランスが崩れてとんでもない味に変わり得る。これはドミソのソが半音狂えば不協和音になるのと同じことだろう。
外部から伝わる刺激は知覚を通じて統合される。刺激は知覚によって統合されてから初めて伝達され刺激そのものが直接人に伝わることは決して無い。
無色光は決して無色ではない。太陽光線がプリズムを通過すれば無数の色と紫外線・赤外線に分解される。太陽光が無色であるのは無数の色によって構成されているからだ。青い光が青いのは、青い色素が多いからではなくそれ以外の色素が遮断されているからだ。
同じように様々な味と香りによってバランスが保たれていたセロリや野菜ジュースの味は、一部の味覚が損なわれることによって酷い味へと変貌し得る。だからこそ嗜好は千差万別・人様々になる。
野菜をとてつもなく不味く感じるようになったのは、もしかしたら狂いではなくリセットなのかも知れない。野菜とは元々最も不味い食べ物であり「食育」によって押し付けられた歪んだ嗜好なのかも知れない。もしそうであれば野菜を味わえる状態に戻ることはかなり難しそうだ。味覚が狂った人間の勝手な言い草かも知れないが、あれほど雑多で癖の多い野菜を同時に多品種摂取して不快に感じないことこそ不自然と言えるのではないだろうか。