俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

移ろうもの

2010-01-19 15:36:33 | Weblog
 人間は矛盾を内包する。統一された自我など幻想でしかない。
 ダイエットしたいと思いつつ菓子を食べる。一所懸命働きたいと思いつつサボる誘惑には抗し難い。家族の幸福を願いつつ放蕩をやめられない。
 多くの場合これらは社会人としての立場と個人としての立場の相克だが、人はそんなことで片付けられるほど単純で分かり易い生き物ではない。個人のレベルで既に分裂している。
 人は愛しつつ憎む。可愛さ余って憎さ百倍ということはしばしば起こる。
 自由でありたいと思っても自由であることの重みに耐え切れず自らの意志で自由を放棄する。隷属したいという願望を多くの人が持っている。
 男は女性に昼は淑女で夜は娼婦であることを望む。こんな願望に応えることは困難だ。
 ペルソナを統括する自我がある訳ではない。自我とは結局ペルソナの総和(シグマ)だろう。
 多分、移ろわぬものを信じ、移ろうものをまやかしと考える姿勢そのものが誤りなのだろう。
 例えば大和川はいつも異なる。同じ場所であろうとも水量も違えば水質も、更にそこにいる生き物に至っては全然違う。それにも関わらず大和川という固定した名称で呼ばれる。
 人も10年も経てば殆ど別人になっているだろう。
 理性(ロゴス)は安定した不変なものを好む。それは移ろうもの・変化するもの、あるいは不確かなものを取り扱うのが苦手だからに過ぎない。固定化・単純化・抽象化してしまえば理性には扱い易くなる。しかしそれは歪められた世界でしかない。移ろわないものなど存在しない。
 移ろうものは空ろなものではない。移ろうもの・変化するもののみが実在する。

個性化と多様化

2010-01-19 15:19:54 | Weblog
 個性化と多様化を目指して教育をすればどんな社会へと向かうだろうか。当時の文部省はどんな社会をイメージしたのだろうか。多様な価値を相互に認め合う成熟した文化社会を?
 実現したのは自らの価値観を唯一のものと信じて、他者の権利を否定する我儘な者の大量生産でしかなかった。かくして社会は秩序を失った。
 しつけと称して日常的に暴力を振るう者が親としての権利を主張する。子供の権利は認められていない。
 養育される権利を主張して親を奴隷の如く扱うパラサイト。親の人権は無視される。
 電車やエレベータ内で大声で話す者は話す権利があると考える。つまり静かに乗る権利は否定される。
 大きな音を立ててスープを啜る者はそれが普通の行為だと思っている。テーブルマナーの存在には関心を持たない。
 個性化・多様化を進める教育には大きな欠陥があった。自分と同様に他人にも権利があり、それを尊重しなければ争いになるという視点がどういう訳か欠落していたようだ。
 本当に個性的な人は自分が少数派であることを自覚している。子供の頃から、他人と違うということに悩み続けて熟知している。ところが俄か個性派である偏狭な者には他者が見えない。自分の考えが絶対、あるいは皆が自分と同じように考える筈だと思い込む。だから自分の行動は常に正しいと考える。偏狭な者の個性化など迷惑でしかない。偏狭な者に権利を主張させてはならない。偏狭な者には毅然とした態度を採るべきだ。今年の成人式での佐世保市長のように。甘やかして増徴させてはならない。

耐久性

2010-01-14 16:19:09 | Weblog
 メイドインジャパンの家電製品の耐久性には驚かされる。丈夫さに驚くのではない。各部品がほぼ同時に壊れるということに驚きと同時に恐怖に近いものを感じる。
 家電製品が故障した場合、それを修理しても次々と他の場所が故障して結局買い替えざるを得なくなる。まるで部品ごとの耐久性が同じになるように設計され同時に壊れるように作られているかのように思える。
 人間の体はこんなに合理的には作られていない。多分最初に膝か腰が壊れる。これは直立二足歩行という特殊な進化をしたせいだ。本来四つ足の構造の人類が2本足で歩くから耐久性のバランスが狂ってしまった。
 膝と腰に欠陥があるから中高齢者の陸上でのスポーツは必ずしも健康のために良くない。そのためだけではないが、私はもっぱら水泳で体を鍛えている。
 膝と腰の次に壊れる場所はバラバラだ。つまり家電製品と同様、全体が同程度の耐久性を持っているようだ。但し先に壊れる場所は人によって違う。私個人としては脳より先に心臓が壊れて欲しいと思う。脳が壊れた痴呆症の状態で長生きしたくない。脳の健康のためなら体の健康を犠牲にしても惜しくない。

弥生人

2010-01-14 16:02:00 | Weblog
 騎馬民族が海を渡ってやって来て縄文人を征服した訳ではない。コルテスによるアステカ帝国侵略や元寇と同じようにイメージするのは大間違いだ。
 南方系・北方系および西方系を起源とする混血の縄文人が広く分布する日本列島に、稲作や鉄器などの新文明を持つ人々が次々に大陸や半島からやって来た。この中には、始皇帝の命令で不老不死の薬を求めて東海へと向かい帰って来なかった徐福の一行も含まれているかも知れない。彼らは侵略者ではなく啓蒙者として縄文人に大歓迎されただろう。言わば天下った神として迎えられた。
 縄文人と比べて少数者であった渡来人は混血を繰り返して同化して行った。こうして生まれたのが弥生人だ。
 水の中に墨を落とせばジワジワと広がるように、大陸および半島系の血筋は西日本の日本海側から徐々に広がった。古事記や日本書紀に拠れば、東北地方には大王に従わぬ蝦夷、南九州には熊襲がいたとされているが、これは原日本人である縄文人の末裔だろう。
 西洋でも中国でも文明・文化の転換期には侵略・戦争・支配という形態を取る。しかし縄文から弥生への文化革命は殆ど犠牲を出すことなく平和に行われたと思われる。近代史における白人による侵略・植民地支配とは全然違う。10,000人未満の犠牲で達成された明治維新と共にこの弥生時代の平和革命は世界に誇るべき日本史だろう。

合議

2010-01-14 15:47:21 | Weblog
 私の考えは偏っている。勿論、私の考えだけが偏っている訳ではない。A氏の考えもB氏の考えも皆偏っている。それはやむを得ない。人は経験に基づいて考える。人によって経験は異なるからそれぞれが偏った考えを持たざるを得ない。
 みんなが偏っているのだから合議を通じてそれぞれの偏った部分を修正すれば正しい考えに至る可能性がある。このことは、古くは聖徳太子も言っていることだ。十七条の憲法の第一条は「和をもって貴しとなす」であり何事も一人では決めず必ず合議せよと記されている。
 ある人は強気でありある人は弱気であろうから、コミュニケーション力が優れた人が集まって合議するなら文殊の知恵ともなり得るだろう。
 但し、そのためには大きな前提条件がある。ちゃんと自分で真面目に考えるということだ。
 自分で考えるということは決して易しいことではない。多くの人はマスコミの報道を鵜呑みにするし、集団ヒステリーに陥っていることもあるからだ。
 集団ヒステリーは中世の魔女狩りのような他所の国の昔の話ではない。日米戦争も典型的な集団ヒステリー現象だろう。軍部だけが暴走したのではない。日清戦争と日露戦争に勝ったことで日本人の大半が戦勝に酔い好戦的になっていて、マスコミも世論も軍部を煽っていたという歴史的事実を見逃してはならない。

援助交際

2010-01-12 16:25:53 | Weblog
 最近、援助交際に関するニュースを余り見聞きしなくなった。一時期と比べれば随分減っているとそうだ。
 なぜ減ったのか。中高生に尋ねると「カッコ悪いから」という答えが多いらしい。
 私は援助交際は難問だと思っていた。「他人に迷惑をかける訳ではない(相手には喜ばれる)」「手軽に大金が手に入る」「自分の体をどう使おうと本人の勝手だ」などの理屈に一々納得し、厳罰化する以外にこの問題を解決する方法は無いのではないかと考えていた。
 ところが意外な解決策があった。「みんな」がカッコ悪いと認めるだけで問題は解決された。何と偉大なる「恥の文化」だろうか!
 行動の基準は善悪や損得ではなかった。周囲の人間がそれをどう評価するかということだった。芸能やスポーツのように周囲が「カッコ良い」と認めるならそれは好ましい行動で、「カッコ悪い」ことは慎むべき行動とされる。
 絶対価値を持たない日本人は必然的に相対価値の世界に生きねばならないが、こんな「周囲の評価」主義は危険だ。援助交際に関してはたまたま(私にとって)好ましい方向に向かったが、周囲の評価はたった1つの事件をきっかけにしてある日突然劇的に変わることもある。周囲の評価を信じて2階に上がって梯子を外されたら余りにも悲惨だ。

高福祉・高負担

2010-01-12 16:08:05 | Weblog
 福祉を充実させたいなら増税をせねばならない。これは当たり前のことだ。
 福祉の充実した北欧諸国では、日本人なら目を剥くほど税率が高い。直接税は約50%、消費税は約25%だ。豊富な税収があるから福祉を充実させることができる。
 小泉内閣は低福祉・低負担を目指した。「官から民へ」の言葉に代表されるようにアメリカ型の小さな政府を目標とした。麻生内閣は中福祉・中負担をスローガンとした。
 鳩山内閣は高福祉・低負担を理想とするようだ。しかしこれはあり得ない。絵に描いた餅だ。高福祉のためには国民に高負担を求めねばならない。そうしなければ国債ばかり膨れ上がって後の世代にツケを回すことになる。
 せっかく福祉の充実ということに国民的な合意ができつつあるのだから、そのために必要な影の部分も明らかにして具体策を練る必要がある。
 良薬は口に苦い。八方美人的な態度で先送りを繰り返していても問題は解決されない。良薬どころかメスを入れるぐらいの覚悟で痛みを伴う改革を立案してその是非を問うべきだろう。
 国民福祉税を突然発表して失速した細川内閣の事例が政治家のトラウマになっているのだろうか。あれは余りにも唐突だった。サプライズを通り越して唖然とした。しかしその後の長い不況の中で、福祉に対する国民の意識も大きく変わっている。
 官副総理兼財務相の「逆立ちしても無駄が出ないとなったときに、これ以上福祉をやらないのか」という10日の発言に、マニフェストに背くという批判の声もあるが、避けて通れない重要な問題だ。悪しきポピュリズムに頼っていてはこの国を改革することはできない。

マナーによる秩序(2)

2010-01-12 15:49:02 | Weblog
 「西洋は罪の文化だが、日本は恥の文化だ」とルース・ベネディクトは指摘したが、絶対者を持たない日本人は「世間」を価値の基準としている。周囲の評価こそ行動規範であり「後ろ指を指されない」ために行動を慎む。
 こんな日本ではルールによる規制は余り重要ではなかった。ルールよりずっと厳しいマナーがあり、各人がそれを守れば心優しく快適な社会生活が約束されていた。
 しかし日本人のマナーを支えた共有価値が幻想となることによってマナーによる秩序は期待できなくなった。
 子供なら、弱い者をいじめたり成績の自慢をしたりすることなどは周囲の顰蹙を買った。悪いことだからではなく、軽蔑される行為だからそんなことを殆どの子供が忌み嫌った。
 大人なら、金持ちであることを自慢したり公共の場で騒ぐことなどは軽蔑を招くので自粛された。
 しかし世間の合意が無くなるとこういう行動基準は成り立たなくなる。各人が好き勝手に振舞うことになる。「何が悪い」という開き直りに対して反論することは困難だ。共有価値の崩壊は行儀の悪い者の横暴を招く。電車やエレベーターの中で騒いでも法律違反ではないのだから誰も規制できない。
 「恥」の意識がバラバラになってしまった現代の日本人にマナーによる秩序を期待すべきではない。シンガポールのようなルールによる秩序を目指さざるを得ない。価値観を共有してそれに背くことを恥ずかしいと感じることが無くなった現代の日本人にマナーによる秩序の復活を期待することは「無いものねだり」でしかない。
 「品格」という言葉を振りかざして自己満足に浸っていても問題は解決されない。

市場

2010-01-09 16:21:33 | Weblog
 1月6日付けの朝日新聞夕刊のトップ記事は「新車市場 中国トップ」だった。しかし記事を読むと「(販売台数で)中国が初めて米国を抜いた」となっていた。なぜこんな寝ぼけた記事を、と思った。朝日新聞ではまだお屠蘇気分が抜けていないのだろうか。
 台数トップ=市場トップだろうか。これは小学生でも分かることだが、市場とは価格×数量だ。米国で売られる自動車は付加価値の高い車が多いので多分単価は中国の5倍くらいあるだろう。もしそうなら米国の市場規模は中国の5倍ということになる。
 このように質を無視して量だけを比較することがよくある。自動車の場合は価格という違った尺度があるのでその矛盾は簡単に指摘できるが、そうでない場合は量が横行する。
 オリンピックになればメダル何個、番組の価値は視聴率、優れた歌手とはCDの売上数、労働者の熱意はサービス残業の多さ、学者は論文の量、これらが取り敢えず評価の基準となり、その後それが一人歩きする。質は問われない。量は客観的に評価できるが質を評価することは難しいからだ。
 どうも数学の苦手な人ほど数字を有難がっているように思えてならない。

少数者のための政党

2010-01-09 16:02:28 | Weblog
 現代の日本は相対価値の時代だ。絶対価値は認められず、それぞれが自分の正義を主張し、それを相互に認め合うことによって社会的に共存している。
 相対価値は多元論の世界だ。多元論に基づけば「正義」は無数にある。当然「政治的理想」も無数になる。
 こういう社会には小党分立が相応しい。十人十色であるように十人十党となっても当然だろう。何しろ絶対価値が存在しないのだから。
 最悪は一党独裁だ。これは候補者を党が先に決めてしまうから国民には選挙権が無いのと同じことだ。党に逆らうことは不可能だ。
 次に悪いのは2大政党制だ。アメリカとイギリスの2大政党制がしばしば模範とされるがこの2国は国際的には例外的存在だ。多くの先進国では小党が共存して連立政権を作っている。
 2大政党制では仮に3つ以上の選択肢があっても、大衆受けする上位2つをそれぞれの党が政策として採用し、第3位以下の政策は葬られる。これでは牛丼とカレーしかないファストフード店のようなものだ。
 多数者が少数者の存在を無視すれば多数決一辺倒の衆愚政治に陥る。小党の存在こそ少数意見を無視しないという民主主義の精神を実現するものだ。
 但し、小選挙区制のもとでは小党は駆逐されてしまう。かつて衆議院が「良識の府」と呼ばれた古き良き時代には全国区に「緑風会」という文化人を中心とした団体があった。その後、全国区はタレント議員の票田に堕してしまったが、それも良かろう。芸能人が票を集めれば集めるほどボーダーラインが下がり、少数者を代表する小党が日の目を見る可能性は高まる。
 負け犬の遠吠えでしかないが・・・・小選挙区制反対!!!