俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

適材適所

2010-09-21 16:18:33 | Weblog
 私は地産地消など奨励すべきではないと考えている。
 りんごは青森産を、さくらんぼは山形産を、梨は鳥取産を、マンゴーは宮崎産を、日本中で消費すれば良い。
 南北に長い日本列島は気候も水利も土壌も様々だ。それぞれの土地でその地に最も適した野菜や果物を作って日本中に出荷してこそ、豊かな農業と豊かな食生活が実現できる。これを適材適所と呼んで差し支え無かろう。
 地元の作物を優先的に選ぶことは危険でさえある。その地域には特有の有害物が潜んでいる可能性があるからだ。
 かつて水俣湾の近くに住んでいた人が、地元の新鮮な魚介類を沢山食べたために有機水銀中毒症になった。
 今でもカドミウムに汚染された土地がある。この近郊に住む人が地元の米ばかり食べさせられたらイタイイタイ病になりかねない。
 バナナやパイナップルなどは輸入に頼れば良い。こんな物を国内で作ろうとすれば巨大な温室が必要となる。そのために使われる石油は、海外からの輸入のために必要な石油量を遥かに上回る。フードマイレージなどといった戯言など糞食らえ、だ。
 実は私が今一番不信感を持っている省庁は農林水産省だ。食料の自給率が40%しか無いと騒いでいるが焼け太りを狙っているとしか思えない。いずれ記事にすべく勉強中だが、世界に類を見ないカロリー換算での自給率を算出することに恣意性を感じる。低カロリーの野菜の自給率が幾ら高くてもカロリー換算してしまえば自給率は低いということになってしまうからだ。

推定無罪

2010-09-21 16:01:39 | Weblog
 押尾学被告に対する一審判決が17日に下された。保護責任者遺棄致死罪とはならず保護責任者遺棄罪となった。
 個人的には不満が残るが、法的には正当な判決だろう。なぜなら刑法は「推定無罪」を原則とするからだ。押尾被告が救急車を呼ばなかったために被害者が死んだと証明することはほぼ不可能だ。呼んでいれば助かった可能性は高いが、これはグレーの理屈でしかない。そもそも確率(可能性)はグレーに関する理論であり、可能性について論じられた時点で判決の方向性はほぼ決まってしまった。裁判は白か黒かを決める場所なので、グレーは白として位置付けられる。
 但しこれはあくまでも法律上での話だ。限りなく黒に近いグレーでありながら、黒と証明することが不可能なために白と判定されただけのことだ。死人に口無しなので密室での事実が解明できなかっただけだ。瀕死の被害者を目の前にして、自らの罪を逃れたい一心で見殺しにした被告の罪は重い。
 私はこれまでアメリカ式の司法取引には批判的だったが、この事件に関しては司法取引があったほうが良いように思える。
 グレーにするために必死で責任逃れに終始する被告の姿は醜く、もし「見殺しにするつもりは全くありませんでしたが、結果的に亡くならせてしまったことに大きな道義的責任を感じています」と言って泣いてくれれば(元俳優の被告にとって嘘泣きなど容易いことだろう)被告に対する憤りはこれほど大きくはならなかっただろう。
 ところで推定無罪の原則があるのだから小沢一郎氏の政治資金規正法違反容疑は最終的には不起訴とならざるを得ないだろう。

鶏口牛後

2010-09-17 15:23:44 | Weblog
 「鶏口となるも牛後となるなかれ」という考え方は間違っていると思う。
 もし高校や大学の受験でそんな考えに基づいて楽に合格できる学校を選んだら、きっと並の鶏にしかなれないだろう。本来、上級の学校に行く能力がありながら、事故や病気などのために運悪く不合格になり滑り止めの学校へ通うことを余儀なくされた人もいるだろう。そんな人のハングリーさと、学校を舐めている人とでは勝負にならない。
 良かれ悪しかれ、人は周囲の影響を受ける。自分が今置かれている環境の中でのベストポジションを探してしまう。つまり低レベルの中ならその中で自分を位置付ける。鶏の中での並とは牛の中での最低レベルでしかない。
 切磋琢磨する状態が人を成長させる。自分よりも優れた仲間が周囲にウヨウヨいれば自分を磨かざるを得ない。油断をすれば益々遅れてしまう。
 一方、最も成長しないのは低レベルの社会に身を置いて安住することだ。今の自分に満足してしまえば向上心が失われる。
 人間は基本的には怠け者だ。安逸を好む。微温湯に浸ってのんびりすることが大好きだ。
 安逸を免れるためには自分を追い込むことが必要だ。追い込まれた人間は火事場のクソ力を発揮する。追い込まれない人間は井の中の蛙となる。
 仲間の中で平均の少し下の人が最も成長して、平均の少し上の人が最も伸びないのではないだろうか。

一夫多妻制

2010-09-17 15:08:10 | Weblog
 一夫多妻制はハーレムや大奥などを連想するために男の楽園だと思われ勝ちだが、実は多くのオスにとっては悲惨な社会だ。大半のオスは交尾する機会さえ与えられずに一生を終えることになる。
 一夫多妻制の動物としてゴリラ、ゾウアザラシ、孔雀などが挙げられるが、一夫多妻制となるのはオスがメスを独占しようとするからではなく、メスが極端に選り好みをするという事情から生まれる。
 ゴリラやゾウアザラシのメスは大きくて強いオスを好み、孔雀のメスは尾羽の立派なオスを求めて、貧相なオスには見向きもしない。その結果として多数のメスと交尾をして多くの子孫を残すオスと、全く交尾できない大多数のオスという極端な格差社会となる。
 メスが選り好みをすることによって進化は促進される。ゴリラやゾウアザラシなどのオスは巨大化し、孔雀のオスは不自然なまでに美しくなった。
 もし生存競争に有利なオスをメスが選り好みするならそれは種族の繁栄に繋がり得るが、孔雀のように明らかに生存競争上で不利な個体に対する選り好みなら絶滅へと向かうだろう。
 危険なのは価値における一元論だ。強いとか美しいとかいった1つの価値に基づいた優劣判断は種族の奇形化を招く。
 人類の場合、幸いなことに多元論だ。強い、美しい以外に、賢い、優しい、面白いなどの多様な価値評価に基づいてメスはオスを選ぶ。価値の多様性がある限り人類の多様性は維持され得るだろう。

教義

2010-09-17 14:54:11 | Weblog
フランスでは14日にブルカ禁止法が成立した。文化の多様性を重視する人の多くはこの法律に対して批判的だ。
 私は多価値・多文化・多元論者のつもりだが、この法律には肯定的だ。その理由は、個人の識別を困難にするような衣装は規制されるべきだと考えるからだ。
 個人が識別できなくなれば指名手配犯人でさえ自由な社会生活が可能になる。顔が分からなくなることが許されれば指名手配が無意味になるだけではなく、コンビニ強盗などの犯罪を誘発することにもなりかねない。
 社会は宗教に寛大過ぎる。反社会的な教義に対しては断固たる態度で臨むべきだ。信仰の自由よりも公序良俗が優先されて然るべきだろう。
 これは私が宗教嫌いだから主張する訳ではない。もしある宗教団体が「性器丸出し」を教義としたら社会はどう対応するだろう。信仰の自由として認められるべきだろうか。
 もし公序良俗よりも信仰の自由が優先されるなら、性器丸出しは認められるべきだろう。たとえ教祖1人だけの超ミニ宗教であろうと認められるべきだろう。つまり主義・主張ではなく宗教という体裁さえ整えば何でも認められるという無茶苦茶な理屈が罷り通っている。
 イスラム教が世界3大宗教の1つであろうと特権を与えるべきではない。反社会的な教義は規制されるべきだ。

作業の効率

2010-09-13 12:47:12 | Weblog
 ある大きさの穴を掘るのに一人で一時間掛かるとする。同じ穴を同程度の力量の10人がそれぞれ掘れば一時間で10個の穴が掘れる。
 しかし10人掛かりで1つの穴を掘っても6分では掘れない。狭い場所に10人も集まれば作業効率は低下する。多分2人か3人で掘れば最も効率良く掘れるだろう。
 先日JR西日本の踏み切りで7人掛かりの作業を見た。踏み切りにある柵のペンキを塗り替える作業だった。ペンキを塗るのは2人だけで、あとの5人は見ているだけだった。どうやら3人ずつが1チームで、作業をする人と上り線を見張る人と下り線を見張る人に担当が分かれているようだった。その2チーム6人以外の1人は全体を統括しているようだった。
 こんな作業は2人で充分だ。場所は踏み切りだ。電車が近付けば警報機が鳴るから線路を見張る必要は無い。警報機に頼るのは危険だと言う人もいるかも知れないが、通行者は警報機を信じて通っている。信じてはいけないほど警報機の信頼性が低いのならそれは通行者に対する背任行為だ。
 とっくの昔に民営化されたJRでさえこんな有様だ。お役所仕事は屋上屋を架し勝ちでそれが大きな無駄になる。
 作業は多分JRの退職者が天下りして役員を勤める下請け企業に任せているのだろうが、その際、安全基準だけは厳しく指導しているのだろう。必ず電車の監視員を置くとか、何名以上の作業なら管理責任者を設けるとか。机上のルール通りにやるから無駄だらけになる。

黒い食べ物

2010-09-13 12:30:25 | Weblog
 日本人は黒い食べ物に対して抵抗を感じない。普段からご飯や魚のコゲや海苔や黒豆などを食べているからだろう。
 西洋人は概して黒い食べ物を嫌う。第二次世界大戦中に西洋人捕虜の食事に海苔を出したことが捕虜に対する虐待として東京裁判で裁かれたのは黒い色のせいだろう。
 海外では巻き寿司も海苔の黒い色が嫌われて、ご飯や具を外にしたrollが主流だ。
 黒い色が嫌われるのは多分腐ったものを想起させるからだろう。日本人でも黒豆で作った枝豆に「腐っている」と文句を付ける人がいるらしい。
 一方、日本人は赤い液体に対して長い間拒絶反応を示した。幕末の日本人は赤ワインとトマトジュースは気味悪がって飲まなかったそうだ。
 日本では長年、赤ワインより白ワインのほうが人気があった。白ワインには生臭さがあるが魚を常食する日本人には抵抗が少なく、赤ワインの渋さは日本人の味覚には合わなかった。ところが「失楽園」がヒットした頃から赤ワインに含まれるポリフェノールには抗酸化作用があり老化やガンや心筋梗塞の予防に繋がると言われてから急激に人気が高まった。
 「気味が悪い」という主観的な嗜好は「健康」という実利的かつ普遍的な価値には敵わなかったようだ。

化粧品

2010-09-13 12:18:49 | Weblog
 今でも売られているかどうか知らないが、かつてキューイというメーカーの靴クリームがあった。この靴クリームを使うと靴がピカピカになった。ロウのせいだ。ロウは靴の表面に膜を作りピカピカに光らせる。しかしロウは革にとって有害だ。ロウが付いたまま長時間放置すると革が壊死してしまう。一時的な美しさを求めてキューイの靴クリームを使えば靴はすぐに駄目になってしまう。
 化粧品の多くはこのキューイの靴クリームのようなものだろう。顔に有毒物を塗り付けて無事で済む筈が無い。今の美しく見える肌は将来の醜い肌を約束しているように思える。まるで麻薬かサラ金のようなものだ。
 恐ろしいことには、化粧品によって荒らされた肌を取り繕うために化粧品が使われているということだ。これは二日酔いの人が迎え酒をするよりも悪く、二日酔いを紛らすために麻薬を使うようなものだ。
 化粧品の後遺症について公的機関は全く警鐘を鳴らしてはいない。化粧品の多くは、食品添加物や薬品と同様、市販されている毒物なのだから危険極まりない。

ギャンブル

2010-09-13 11:32:58 | Weblog
 日本のギャンブラーは阿呆ばかりだと思う。なぜなら世界一配当率の低いギャンブルをやっているからだ。
 宝くじは46.4%、競馬・競輪などの公営ギャンブルは75%しか配当に回されていない。大相撲の力士が大勢参加した野球賭博は非合法なので配当率は分からない。仮に配当率が高くても不払率もかなり高そうだ。
 一方、欧米のギャンブルの配当率は高い。ルーレットやスロットマシーンは95%、サッカーなどのスポーツ賭博は98%だ。
 日本の場合、ギャンブルの利権を国や自治体が独占しているから、強欲な役人共は暴利を貪って世界に類を見ない低配当率になっている。
 多分、役人共は、ギャンブルで儲けるような不道徳な人ができるだけ多く生まれないようにするという親心も0.01%ぐらいあるだろう。しかしもし親心があるならギャンブルのせいで生活が破綻する人を救済すべきだろう。
 大阪府を含む幾つかの自治体ではギャンブル特区という構想が検討されている。しかしもしギャンブル特区を作るならこんな低い配当率は不当だ。欧米並みの配当率に変更すべきだろう。
 その場合、無駄遣いの多い「公」による運営では採算が合わない。すぐに赤字経営になってしまうだろう。従ってギャンブル特区は民営化されねばならない。
 たまたま先日、「宝くじドリーム館」という施設を見た。利用者は殆どいない。正に無駄遣いそのものだ。「公」は無駄遣いが大好きだということを改めて実感した。

偽エビデンス

2010-09-13 11:17:32 | Weblog
 エビデンス主義とは証拠に基づく医療だ。結果に注目して治療法の妥当性を検証するという科学的な思想に基づいている。
 これは「結果オーライ」とは全く別のものだ。今、良い結果が出ているから正しいと判定するのではなく、長期的・統計的に分析してその治療法の妥当性を問うものだ。
 鬱病に対するSSRIの長期間投与は偽エビデンス主義の典型例だろう。鬱状態の人に麻薬や覚醒剤を投与すれば症状が軽減したように見えるのと同じことだ。
 アルコールを大量に摂取させても同じような効果が得られる。憂さを忘れて陽気になれるだろう。二日酔いによって症状が悪化すれば迎え酒で症状は治まる。こうしてアルコールの大量摂取→二日酔い→迎え酒、というプロセスで鬱病患者は唯のアルコール中毒患者になる。
 鬱病患者に対するSSRIの投与は対症療法でしかない。鬱状態を克服するためには根本原因に対処するしかない。その根本原因は人によって千差万別であり分かりづらいものだが、医師なら真面目に取り組まねばならない課題だ。
 SSRIを安易に投与する医者は、風邪に抗生物質と解熱剤、痛みに鎮痛剤を投与する医者と同レベルのヤブ医者だろう。これは治療ではない。最低レベルの対症療法であり問題の先送りに過ぎない。